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ヘルタースケルター

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ヘルタースケルター




 夜の帳がおりた頃合いを見計らってあてどもなく出歩く週末はそれなりに魅力的だ。歌舞伎町一丁目のとある有名なおピンク街道を歩いて行けば、ありとあらゆる色をした街灯と電光看板達がいやに誘発的な色で点滅を繰り返して出迎えてくれる。キャバクラ、ホステス、ホストクラブ、ボーイズバー、ランパブに果てはSMクラブ。趣好専門まであげだしたらのならばキリがない。そんな店がずらりと並んで、ようこそいらっしゃいとそこかしこでよからぬ思惑に目を細め、手ぐすねひいて待ち構えているのだ。
 視線を流すといくつか見知った顔があった。そのどれもが目配せだけで挨拶を寄越してくる。みだりに話し掛けるなという指示と意図を、彼らはキチンと理解し、忠犬よろしく守っていてくれているようだ。微笑みだけで会釈を返すそのすぐ脇で、客引きとスカウトマンが喧嘩を始めた。きゃあ!と甲高い悲鳴が聞こえてきて、俺は思わず冷笑を送る。そんなことはここでは日常に茶飯事なので、そんなありがちな修羅場なぞへ向ける俺の関心は薄いというのが正直なところだ。乱痴気騒ぎや愛憎劇のひとつやふたつでも起こるものなら面白いのに。心の底から残念にそう思った。


 新宿の、ある意味では表舞台を抜ければ、かの有名な二丁目への扉が待っている。ようこそ新世界へ。いっそ禍々しい風貌のバラのお嬢さんと目に障る毒々しいネオンの蛍光灯がちらつく。今日もどこかの迷える子羊がアンダーグラウンドに足を踏み入れて、ベルベットな渦の穴に飲み込まれ、骨の髄までむしゃぶり尽くされていることだろう。
 くっくっく。堪えきれない笑いが込み上げる。持って行き場のない衝動に、すぐ傍の裏路地に廃棄された腐敗臭のするポリバケツを蹴り飛ばすのを、ホームレスのがらんどうの瞳が見ていた。

「やあ……こんな所に居たの?愛してるよ」

 手を差し出して愛を告白する。俺は彼の瞳に映る自分を見た。では、彼の方は?もちろん、俺のことなど見ちゃいない。その目はいったい今まで何を見てきたのだろう。覗いてみたい気分に駆られたが、生憎と彼はもうコチラの世界には居ないようだった。ああ、貴方はもうなにも見たくなんかないんだね。

かわいそうに。かわいそうに。かわいそうに。





「かわいそうに!」

 ミルクティー色の艶やかな髪を持つ彼女が液晶に向けて嗟嘆の声をあげた。画面の中では老人らしき男が老女へ向けてなにか不明瞭な英語で語りかけている。金色の糸を束ねたようなそれを掬うように手に取ると、驚いたことに毛先まで艶めいていた。彼女の風貌は、それこそまるでなんとか人形のようだ。セレブリティやハイソサエティ自体に興味はないが、そこに惹かれる心理と行動原理は興味深い。貴族は平民を装いたがり、平民は貴族を装いたがる。よくある話だ。

「ねぇ、君の髪って綺麗だね」
 滑らかな流れに沿うように口づけた。
「ありがとう。昨日トリートメントしてきたばっかりなの」

 頬をたゆませて感謝された。そういった素直さは嫌いじゃなかった。彼女としてもそれが武器になることを本能と経験で理解しているのだろう。敢えて負かされてやろうと思わないでもない。

「ここへ来る途中、ドイツ兵のじいさんに会ったよ」
「ドイツ兵?ドイツの人だったの?」
「いいや、日本人だったよ」
「なにそれ、へんなの」
「でも彼は戦場に居たんだ」
「ふうん」
「昔の話さ」
「どうでもいいや」

 ぷいとかわいらしい彼女は画面に向き直った。無知は罪だ。そして幸せだ。彼女は俺がホームレスになっても俺を愛すだろうか。ああ、かわいそうに。

「せつないね」

 しばらく眺めていた横顔がこちらを向いて言った。
 そうだね、せつないね。己の口が機械越しのような言葉を繰り出すのを聞いた。

「でも、本当に?」
 愚鈍さを装って小首を傾げた。疑い深い瞳が覗き込んでくる。
「私、本当にきれい?」
 さしもの俺も苦笑するほかなかった。
「ああ、きれいだよ」

 だが、それだけだ。目を細めてにんまりと笑うと、愚直な彼女は嬉しそうに身を寄せてきた。俺はただの事実を述べただけなのに。





 彼女との出会いはいたって陳腐なものだった。

 ミーハー根性丸出しの少女たちにいい加減に辟易していたある日、俺はこの歌舞伎町をぶらぶら歩いていた。なにか布石となる新しい捨て石が転がってはいないかと期待して。池袋もそれなりに楽しい街だったけれど、こうして移り住んでみれば種類こそ違えど新宿もなかなか魅力的だ。なによりも本能に忠実で欲望が先立つ街。人間的な、それはあまりにも人間的な本質の誘導先。新宿という街はまさにカオスのるつぼだった。

 彼女が気軽に肩を叩いて声を掛けてきたのはそんな時だった。そして第一声にこう言ったのだ。

「ねえ、拾ってあげようか」

 なにを勘違いしたのかと、最初は軽くあしらうつもりだった。きっと、お世辞にもいい身なりをしているとは思えない俺を、放蕩息子かあるいは穀潰しかなにかだとでも思ったのだろう。だが、彼女ははじめから自分が優勢であると信じて疑わない眼差しで俺を見るのだった。
 拾ってやるだって?おかしさに天を仰ぎたくなった。彼女はどう?とでも言いたげににっこり笑う。なんとなくだが彼女の過去の遍歴は察しがつく。どうも自分よりも若い男を手のひらのうえで転がしたくてたまらないらしい。そう思ったら新しいゲームにでも挑戦する気分になってきた。微笑む俺に彼女は微笑み返して、近くにあるというアパートメントの自宅に招待してくれた。


 名前は?と最初に訊かれたのは煎れてくれたコーヒーも半分になった頃だった。俺は好きなように呼んでいいよ、と言って、じゃあポチね。と彼女はその遊びに乗ってきた。ベッドのうえでのそんなごっこ遊びは転げ笑いたいほど馬鹿馬鹿しくて、慈しみの微笑みなんか向けられた日にはもう、ちゃんちゃらおかしくてしょうがなかった。ポチだなんて呼ばれて嬉しいわけもないが、懐柔される側の気持ちがほんの少しばかり分かるような気がして、そしてそれはなんと楽なのだろうと同情めいた感情を抱いた。それはそう分が悪いことではない。
 けれども時折、情事の最中に俺はポチではなくユズルになった。俺は彼女がなにを望んでいるのか分かっていながら、深く追求することはなかった。そうすればこれは遊びではなくなってしまう。そんな展開は彼女のほうとしても望んではいないだろうと、そしらぬフリを押し通した。それは俺なりの慈悲だった。そうしたある日、彼女は頼んでもいないのに自身の名前をシズエだと打ち明かす。余計なことを、と思ったけれど、最中にシズちゃんと呼ぶことの倒錯した感覚はなかなかスリリングで手放しがたいものだった。


作品名:ヘルタースケルター 作家名:saki105