ヘルタースケルター
ベット脇のサイドテーブルに置かれたメルヘンチックなライトスタンドは、オレンジ色をした壁におぼろげなブレーメン音楽隊の影を映し出す。悪趣味なそれはまるで覗かれているような気分にさせるし、なんだか滑稽で時々は不愉快な気分にもさせた。
首を絞めていいか、と聞くと、彼女は弾んだ息を途切れさせながら、いいよと言った。金色の髪をロープに見立てて、ゆっくりと首を狭窄させる。うっとりとした歓喜に滲んだ瞳が見上げてきて、夢うつつな声で本当の名前を教えて、と言われた。途端に気が逸れてしまう。身も蓋もない言い方をするのなら、白けて萎えてしまったのだ。ぱさりと髪を振り払って床に散らばった服を取り上げる。すぐさま背中に縋り付いてくる声。
そろそろ潮時かもしれない。はっきりとした意識で思う。俺は彼女のポチにもユズルにもなってやれるが、俺自身は彼女のものになってやる気はないのだ。掴まれた腕を肘で振り払って部屋を出た。なにもかも茶番だ。誰も俺を満足させてはくれないらしい。なんてつまらない夜なんだろう。
池袋に赴いたのは、なんの気まぐれかも分からない。ただ、郷愁へ向けるノスタルジーめいた感傷のようなものはあったかもしれない。アクの強いあの街に、知らずのうちにこの俺も中てられていたことは事実だった。
「ヘーイ、ドシタノーイザヤ、メズラシネーエ。キョーハ、アメフルカナ?」
ハハハ、と陽気に笑って相変わらずの風体でサイモンが出迎えた。
「やあ、サイモン久しぶりだね」
「寿司、クイネカ?安いヨーバーゲンヨー」
「ていうか時価って時点で安いとは言わないけどね」
「エー?ナンテイッタカー?」
オーバーなリアクションで耳に手を当てて訊き返してくる。こういったやり取りすら懐かしい。
「適当なネタ握ってくれるかな。金に糸目はつけないからさ。ああそうだ、大将は元気?」
ロシア寿司の暖簾を潜ろうとしたところで、サイモンの頑丈な腕がそれを制した。ニッコリと笑ってはいるが、またそれが意味深だ。
「……なに?」
「タダイマトリコミチューナノネ」
「なんかあったの?」
「ンー、マサカイザヤガホントニ、寿司クウトハ思いモヨラズ」
「俺だってたまには寿司くらい食うさ」
「ン、ンー。ワカタヨー、大事ナお客サン逃シタラタイショにも悪イネ」
チョトマテテネ。と片言に言って、サイモンは店の中に消えた。そしてものの数十秒もしないうちに、また顔を見せる。
「オーケー。オーライ、カモンボーイ」
そうして手を招かれた。
サイモンが世界一だとしきりに讃える露西亜寿司の味は、彼が言うほどではないにしても、まあそれなりに上等だ。しかし腹は膨れても心までは満たされない。サイモンは始終笑顔で俺をもてなし、大将はやはり最後まで寡黙な男だった。
「バイバイネーイザヤ、イイコシナヨーモウ喧嘩シチャダメヨー?パカー」
邪気のない顔でそう言われ、俺は苦笑して頷いた。
悪いね、サイモン。だけど俺はそう聞き分けのいい子じゃないんだよ。
適当にそこらを迂回しつつ暇を潰すと、頃合いを見計らって一度は帰路をたどった道を遠回りしてから、別ルートからまた回帰する。露西亜寿司の裏手に繋がる路地を歩く途中、陰のうえに一段と色濃く散った血痕を見つけた。これを手掛かりに辿っていけば、そこには真理があるだろうか。あるいはその片鱗を掴めるのだろうか。俺は辿り着く先になにがあるのか、おおよその見当がついていながら、いまもって気付いていないフリを押し通す。絶望と希望とが摩擦を繰り返しながら競り合っていた。どちらが勝利を勝ち取るのだろうと、期待に胸が打ち震えていた。
「やっぱり……」
目から鼻に抜けるなにかに、笑いが漏れた。
「やあ、やっぱりまた会ったね」
気を取り直してそう言うも、返事は返らない。
意識のないシズちゃんは薄汚い裏路地の壁に背中を預けてぐったりと長い手足を投げだしていた。それにしても今日は随分と手酷いお仕置きを受けたもんだ。血みどろになったシズちゃんの有様に少しぞっとした。サイモンの制裁はさすが祖国譲りで容赦がない。
近寄って大胆におっぴろげられた股の間に屈み込む。ポケットの中にナイフはあるが、ない事にも出来る。けれどあることを証明してみせるのは容易でも、ないことを証明するのは難しい。悪魔の証明の悪魔たる所以はそこなのだ。だからこそ、ないものをあるように、あるものをないように見せかけるのがいつも俺の手管だった。それでは、この不可解な現象は?その心理と行動原理とは?答えはいまだ出ていない。これだけがいつも俺の理解の範疇から逃げ出して懐柔されてくれない。そしてそれはいつも俺を憤らせ、苦しめるのだった。
がくりと垂れた頭を髪を掴みしめて持ち上げる。ミルクティーとはほど遠い下品な色のそれは毛先ほど白くて、あらいざらしの髪は何度も掴み締めるたびにきしきしと軋んだ。
「う……」
壁に押し付けるように拳をあげると、そんな呻き声が漏れてくる。鼻から口端まで繋がる乾きかけた血の筋を辿るように舐めあげた。鉄臭い味が口内に広がり、鼻を劈く。唾液に溶けたそれを舌先に溜めて唇の中に捩込む。弛緩した顎のおかげで歯を割るのも容易だった。触れ合う舌が生暖かい。俺はなにをしてるんだろう。俺はなにがしたいんだろうか。それでも倒錯的な状況に熱くなるものがあり、それはあからさまな証拠として俺に現実を突き付ける。
いま、首を絞めればシズちゃんはどんな風に俺を打ちのめすのだろう。強姦まがいの行為をすれば、軽蔑の眼差しで俺を喜ばせてくれるだろうか。今以上、これ以上ないくらいに、どんな逃げ道すらも絶つほどの完全なる威力で俺の中を憎悪の念で満たしてくれるだろうか。
舌を吸い上げるといやらしい音がした。はあ、と息をついたシズちゃんの熱い吐息が間近に肌を撫でる。首筋に顔を埋めると、吸い付いて舐めまわす。同時にシャツを引っ張り出して直に触れる肌を脇腹から腰にかけて撫で下ろした。
「あ……さ……」
「なに……シズちゃん」
不明瞭なうわ言を繰り返す力のない唇に俺は聞き返す。
「ねぇ、言ってよ」
「んん、……う、」
舌を噛むとかすかに苦いがした。
「は…ぁ…トムさ……」
「────っ!!」
その瞬間、俺はシズちゃんを付き飛ばしていた。
――おれは、なにを期待した?
ぞわりと粟立つ肌が嫌悪感を顕著にする。ふらふらと立ち上がった俺は見下ろすシズちゃんを絶望の眼差しで見つめた。
「──オイ、なにしてやがる!」
遠い場所から声があがった。開かれたドアの隙間から漏れる光のせいで目が眩んで、俺はすぐさま駆け出した。自分の吐く息がやけに近く感じる。興奮のせいか、換気扇に打ち付けた脛の痛みも感じない。動悸と呼吸の感覚だけが研ぎ澄まされていく。ネオンの閃光のような残光が目に焼きついて、それは記憶として脳裏にまたひとつ皺を刻み付け、そしてそれはやがて追憶という名をした悪夢へと変わっていく。