ヘルタースケルター
気づけば彼女の部屋の前に佇んで居た。インターフォンを押す指が、らしくもなく震えた。数秒待ったが出ない。いつもなら間髪いれずに開けるくせにどうして今日に限って。苛立ちに舌を打ってもう何度か鳴らす。おい、早くしろよ。俺は今までお前の茶番に付き合ってきてやったんだ。一度くらい俺に付き合ってもいいだろう。そわそわと落ち着きなく壁訴訟を唱えたところで扉が開いた。わずかな隙間から迷惑そうにしかめられた彼女の顔が覗く。手を入れて全開しようとすると、ガチャン!とチェーンブロックの軋む音が通路に響いた。
「なんの用?」
こないだまでの彼女はどこへ行ったのだろう。俺の愛したあのかわいらしさはすっかり為りを潜めて、かわりにふてぶてしさが露見される。それこそが本性なんだろう。だが今となっては、それもこれもどうでもいいことだ。
「ねえ……開けてよ、こないだは悪かった。謝りたいんだ」
「もう遅いわ」
彼女はむっつりと唇を尖らせて腕を組んだ。
「あたしのこと、好きでもなんでもないんでしょ」
「そんなことない。ちゃんと好きだよ、シズちゃん」
好きだよ、シズちゃん。と俺は繰り返す。
「ちゃんとって?でもポチは私だけを好きじゃないんでしょう?」
無知の知はこんなときにやっかいだ。直感と嗅覚ばかりが発達して、こちらの言い分は理解出来ないとくる。
「好きだよ、でも俺は人間みんなを愛してるんだ。分け隔てなく、平等に」
(でも、本当に?)
疑い深い瞳が聞き返す。
「ああ、そうだよ。俺はだからいつだって君の望むものになってあげたじゃない。ねえ、だからさ」
「あたし、シズちゃんじゃない」
思わず耳を疑い、言葉を失う。
「あたし、シズエって名前じゃないの。ほんとうは」
そろそろと見上げてくる顔の向こうに、上質な匂いのする革靴が揃って置かれているのを見る。
「ユズルが帰って来たの。今、寝てるの。だから……」
殊勝に笑う口元の、歪んだ笑み。
「もう要らないの。ゴメンネ?オリハラ…イザヤくん?」
息まで失う前にそこを飛び出した。わんわんと頭を打つ声を振り払うように駆けていく。冷たい汗がどっと滲み出す。どこまでも追ってくる悪夢の影が、街のそこかしこに身を潜めているように思えてならなかった。
雑踏のなかに紛れ込むように身を捻じ込んだ。カオスがその中で俺自身すら内包し、誤魔化してくれる作用を期待して。ぶつかった派手な見てくれをした女が非難の目で俺を睨みつける。その向こうで二次災害を被ったヤクザ風情の男がその女を恫喝した。目にも留めず先を行く。背後に続くのは悲鳴と好奇の潮騒。乱痴気騒ぎ。愛憎劇。吐き気を模様して人ごみを掻き分ける。ようやく抜け出したあとは酷い酔いとめまいが襲った。
裏路地に入り込むと、がっくりと膝をついて人目も憚らずげえげえと嘔吐した。みっともない醜態を晒したことよりも、不快感を拭いたくて口元を覆った。ふとした視界にみずぼらしく汚れた靴を認めて顔をあげる。いつかのがらんどうの瞳がコチラを見ていた。ぽっかりと開いた口に俺は漆黒の闇を見る。その唇が、言葉を象る。
「やめ……」
頭の中でその言葉が延々と反響する。
「やめろ……!!」
頭を抱えて裏通りに飛び出した。いっせいに振り返る人々の視線。がらんどうの。そのどれもが俺を糾弾する。
カ ワ イ ソ ウ ニ 。
ゼ ン ブ オ マ エ ノ セ イ ダ 。
ア ア カ ワ イ ソ ウ ニ 。
(せつないね)
──誰が。
(でも、本当に?)
──なにが?
(ねぇ。でも、本当に?)
切ないのは、どっちだ。
かわいそうなのは、一体、誰?
END.