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婚約者 [黒後家蜘蛛の会二次創作]

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婚約者(1) 会食


 その日の「黒後家蜘蛛の会」会食のホストはジェイムズ・ドレイクであった。

 ゲストはフランク・ピアスン、弁護士と紹介されたが、ピアスンは、メンバーに紹介されている間も、食事の間も、品のよい笑顔を時折浮かべるだけで自分から口を出すことはなかった。

 テーブルの話題はとりとめもない四方山話が続いたが、ゴンザロが“ニーベルンゲンの指輪”の通し公演を見てきたという話を持ち出したとき、テーブルの雰囲気に変化が起きた。

「全幕公演だと4日間連続の公演になるからね。歌手も舞台装置もすばらしいものだったが、何よりワーグナーのエネルギーには圧倒されるね」ゴンザロが身振りを交えて言った。
 トランブルが、ふん、という顔をして言った。「きみも大芸術家の光を受けて、遅ればせながら小芸術家への道を歩もうとしているわけだ。死ぬまでに少しでも近づければもっけの幸いというものだな」
 ゴンザロはトランブルに向かって煙草の煙を払いのけるような仕草をして言った。「芸術の光が注意深く避けて通り、漆黒の闇の中で生きるきみには心からの同情を禁じ得ないな。たまにはきみもクラリネットの演奏会にでも行ってみてはどうかね。パブや賭けビリヤードだけじゃなしにさ」
「賭けビリヤードなんぞやらんよ。まあ、きみの作品の展覧会に行くより有意義ではあろうがね。だが時に演奏会にも行くさ。わたしとしてはもっとも好きなのは弦楽四重奏なんだが、ワーグナーの歌劇だって行ったことがある。“タンホイザー”だったな」
「私はバイロイトで“トリスタンとイゾルデ”を見たことがある」アヴァロンがバリトンを重々しく響かせて言った。「バイロイトはまさにワーグナーの本場だからね。舞台装置ひとつにしても歴史を感じたものだ」
「占領期間中のことだろうな、きっと。そこから軍時代の昔話をはじめないでくれよ」アヴァロンが軍時代の全期間を通して本国勤務であったことを百も承知でルービンが言った。
 アヴァロンは何かを言いかけようとしたが、その前にドレイクがさらりと割って入った。
「若いころは“マイスタージンガー”をよく聞いたものだな。あれは若者の気分を高揚させるよ。ただ最近は年のせいか、あまりワーグナーの歌劇公演を見に行こうという気はしないな。肩が凝るからね。しかし大作ではあってもベートーヴェンの交響曲は時に聞こうという気になるんだが」
「ベートーヴェンは」アヴァロンが失地回復とばかりにすかさず言った。「まさに楽聖だからね。ワーグナーの時代、楽壇はワーグナー派とブラームス派に分かれて抗争していた。しかしベートーヴェンは両方の派から変わらぬ尊敬を受けていたのだよ」
「そうは言うがね、その分裂はワーグナーの奇行によるものが大きいよ」疎らな髯を逆立ててルービンが言った。「唯我独尊を絵に描いたような男だったんだからね。自分の利益になることなら、詐欺まがいの破廉恥な行為も恥じることがなかったんだ」
「それに、女性関係もだな。奥さんも他の男から取っていったんだろう」ホルステッドが口を挟んだ。
「コージマ夫人のことだな。しかし彼女はワーグナー亡きあと、さっきジェフが言ったバイロイトを支えた功労者だよ。そこにもちゃんと着目して公正に評価すべきだ」言葉とは裏腹に、極めて独善的な口調でルービンが言った。
「うん、たしか、リストの娘じゃなかったかな」ドレイクが言った。「リストはそのようなことがあってもずっとワーグナーの支援者だったはずだ」
「他のことはともかく、女性関係のことでリストに何が言えるものかね。彼自身、そちらの方面ではだらしなかったんだから」ルービンがまくしたてた。
 そのとき、テーブルの一隅から深い溜息が響いた。〈ブラック・ウィドワーズ〉たちは一斉にそちらを振り向いた。
 溜息の主であるゲストのピアスンは、力ない微笑みを浮かべて言った。「いや失礼。ジム、ここでは音楽の話がよく出るのかね?」
 ドレイクは言った。「いや、そういうわけじゃない。話題はそのときそのときで変わるからね。歴史の話が出ることもあれば、科学の話が出ることもあるし、単なる言葉遊びで終始することもある。要するにそのときの気分だね」
「そうか。いやみなさん失礼しました。話の腰を折ってしまったようで」
「いえ、気になさることはありませんよ」アヴァロンがとりなすように話を続けた。「リストと言って思い出したが、私は昔セルゲイ・ラフマニノフの演奏を聞いたことがあるのだよ。私はまだ子供だったがね……」
 そのまま会話は再び四方山の話に流れて行った。