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肩越しの月

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「わざわざおいで頂いてすみませんね」

 幾分にこやかな表情を取り繕った粟楠会の幹部である男が静雄に座るように促した。
 静雄は軽く頭を下げると男の前のソファに腰を下ろす。

「・・・あー、俺は礼儀とかそういうのは良くわかんねえんで」

 そう前置きすると、静雄は一拍置いて話を続けた。

「わかんねえついでに聞きますけど、結局どうなったんですか」
「平和島さんに対する容疑は晴れましたよ。もうご迷惑おかけすることもありません」

 どうもその節は、と続ける四木を静雄は遮る。
 頭を下げてもらうほどのことはしていない。

「もともと俺が疑われるような真似をしたっつーのもありますし」
「けれどそれを仕向けたのも私の手飼いの人間ですから」

 その際はお見苦しいものをお見せしましたね、と四木は呟いた。
 その言葉に静雄は思い出す。
 ひしゃげてつぶれた頭、部屋中の鮮血。
 それはもしかしたら自分が犯すかもしれない未来でもあった。
 軽く頭を振ってそのことを頭から追い出すと、静雄は腰を上げる。

「疑いが晴れてるならいいです。一応筋は通したほうがいいと言われてきただけなんで」
「ええ、こちらもキチンと筋を通させてもらいますよ。平和島さんを巻き込んだ奴にはお灸をすえないと、ね」

 腰を上げかけた静雄は、その単語に反応を示した。
 お灸をすえると言っても本当にそうするわけではないだろう。何をされるのか、一応まっとうな人生を歩いてきた静雄には想像もつかない。
 けれど、それをされるのは。

「お灸をすえるって・・・何すんですか」
「おや? 興味がありますか」
「いえ・・・」

 静雄は口を閉ざす。何を聞きたいのだろうか自分は。
 それをされるのはきっと、静雄が一番嫌いで死ねばいいとまで思っていた男だろう。願うべくもないはずなのに。

「ああ。あなたと彼はご友人でしたね」
「友人なんかじゃ・・・ねえ、です」
「でも。高校の同窓生とお聞きしてますよ。お医者の先生もそうでしょう」

 ご心配ですか、と四木は尋ねた。気のせいか、どことなく面白そうな表情で。
 静雄は頭を振る。そんなはずはない。心配、なんかしていない。
 今回の件だって、彼のせいで大変な目にあった。けれど、それでも。それなのに。

「もうお会いできなくなる・・・とまでは言いませんよ」
「・・・」
「けれどケジメはつけないと、しめしがつかない稼業ですから」

 まあ、それなりに、と。四木は少しだけ本性を垣間見せるように薄く微笑んだ。
 理屈はわかる。けれどそれを頭が拒否した。
 上げかけた腰を再び下ろした静雄の、その手がかすかに震えてることに四木は気付いていた。

「・・・俺が」

 静雄が小さくつぶやいた。声が震えていることに本人は気付いているのかどうか。
 四木はその先を促すように黙っている。

「俺が頼んでも・・・駄目ですか」

 いうなれば静雄は被害者だ。
 その被害者が告訴を取り下げれば、犯罪は立証されない。
 けれどそれはあくまで、表の世界での理論でしかない。
 裏はそこまで甘いところではない、それはわかっている。だけど。

「迷惑を被ったのはあなただけじゃないですからね」
「・・・」

 静雄は沈黙する。
 自分も随分と大変な目にあったが、振り回されたのは粟楠会も同じことだ。
 静雄を疑わせることで、貴重な人材を静雄探索に裂いたりしたために生じた人員・時間的なロス。少なくともあそこに静雄がいなければ粟楠会は違う手が打てたはずだ。
 時は金なり、というが、粟楠会が打ちそこなった先手だけでも高い代償だろう。
 静雄が頼んだところで、なかったことにできるものではないのだ。
 黙ってしまった静雄を見て四木はかすかに唇を動かした。
 それは薄く笑ったように見えた。

「けれどこの先は取引と行きましょう」
「・・・取引?」
「そうです。その話を承諾して、私に何か見返りがありますか」

 四木の言葉に静雄は顔を上げる。
 金は払えない。無い袖は振れない。金で決着がつくような話でもない。
 静雄にできることは。

「俺が・・・何か手伝うってのは」
「素人さんに仕事を手伝わせるわけにはいきません」
「・・・でも、」
「やめといたほうがいいでしょう」

 一度でも関わったら戻れなくなりますよ。あなたのような人間は。
 四木は表情を緩めて静雄を諭した。
 本当のところは、戻す気がなくなる、だ。
 静雄のような便利な人材を一度でも使ってしまったら、手離せなくなることはわかりきっていた。
 人は楽なほうに流れていくものだ。一度だけ、の約束はずるずると続いてしまうだろう。
 四木が一度だけ、と約束したところで、組にとっては意味のないことだ。
 一度だけでも闇の部分と契約をしてしまえば、あとは落ちていくだけだ。

「弟さんにご迷惑をかけるのは本意ではないでしょう?」
「・・・」

 静雄は黙ってうつむいた。頷いたのかもしれない。けれどそのまま顔を上げなかった。
 四木はそんな静雄を黙って見つめ、それから囁くように問いかけた。

「あなたは私に対して切れる最強のカードがある」 

 静雄は訝しげに四木を見つめた。
 最強のカード。そんなものはない。思いつかない。
 益になりそうなもの、強いて挙げれば弟の存在くらいだろう。
 けれどそれに頼るわけにはいかない。
 静雄はそれを断ろうと口を開いた。
 だがそれを遮るように四木は続ける。その声は冷たくて、熱い。

「それが何か、わかりますか」
「・・・わか、りません」

 静雄は気圧されたように返答する。
 あまり他人に対して恐怖心を持たない静雄だったが、今日初めて、この目の前の男を少しだけ怖いと思った。
 けれどそれは、暴力やそういったものへの恐怖心ではなく。
 暗い深淵を覗きこまされそうになる、そんな恐怖だった。

「あんまり下衆なマネは趣味じゃないんですがね・・・せっかくの機会だ。利用させてもらいましょう」

 四木の声音は少しだけ楽しそうに感じられた。
 それが判断できるほど四木と面識があるわけではなかったが、静雄はそう思う。
 四木はゆっくりと身体を起こすと、静雄に顔を近づけ、そして。

「抱かせて、もらえませんか」
作品名:肩越しの月 作家名:774