肩越しの月
耳元で囁いた。
一瞬何を言われたのか静雄は理解しかね、それから羞恥で顔を染めた。
「・・・俺は、男です」
「わかってますよ。しかも『池袋最強』の男だ。・・・だからですよ」
あなたを手に入れたがっている人間は意外と多いんですよ、いろんな意味でね。
静雄の顔を覗き込むように四木は続けた。静雄は目をそらそうとしたが、できなかった。
「一度だけ、です。そうしたらこの件から粟楠会は手を引きましょう」
「・・・一度だけ」
「そうです。安いものだと思いませんか? この件でウチが被った被害に比べれば」
「・・・」
手を引く、などできるわけがなかった。本来であれば。
四木は感情で動かない。情にも流されない。だから本来これは『あり得ない』取引だ。
それくらい、魅力的な取引だった。
闇の世界で、『暴力』は、圧倒的な力、そのものだ。
インテリやくざだの組の形態も変わっては来ているが、いつだって裏の人間たちはその『力』に憧れる。
強いものは正しい、ある意味そういったシンプルな世界であるかもしれなかった。
その世界に生きる人間がこぞって求めてやまないもの、『暴力』を体現したような男。
圧倒的な力を持ちながら、裏の世界にも落ちてこない。ギリギリのラインを保っているその男、を。
手に入れたい、と願う人間は多かったのだ。そして、それを屈服させたいと思う人間も。
最強の男を手なずけて服従させたい。組み敷いて、あられもない姿をさらしたい。それは歪んだ愛情であるかもしれなかった。
四木は、そこまで狂うほどに静雄を求めているわけではない。どちらかというとそれは、テレビの向こうの人間に憧れるような気持に近いだろう。
けれど、目の前にあったら手に入れたくなる、それが人情というものだ。
その万が一にもありえない機会が転がり込んできているのだ、それに乗らないわけにはいかないだろう。
「どうします、平和島さん」
優しい声音で四木は尋ねた。
恐れ怯える草食の獣を誘い出す狼のような優しさではあったが。
静雄がかすかに頷く。
四木はそれを見て薄く笑った。だが、声に出しては何も言わなかった。