【腐】よいこのねるじかん
シグナスの武王ガーランドは、自室のバルコニーから夜の街を見下ろしていた。
砂漠のまっただ中にあるこの街は、寝ることを知らない。
夜中をすぎてもなお、あちらこちらに灯がともっており、それが一つの塊になって満月よりも明るい光を形成している。
実際街にいなくとも、目で見て賑やかであることを感じさせた。おそらく街の繁華街や歓楽街では、砂漠の熱風よりも熱い、人々の熱気と喧噪に包まれている事だろう。
賑やかなのはいいことだ、人が集まれば金が動く。
金が動けば国が豊かになる。
ガーランドは呟いた。
大きな夜風が吹き、夜空に浮かんだ満月を雲が多い隠す。
王の周りが音もなく闇が包み込んだーー刹那、背後に感じる人の気配。
臣下や部下なら、ガーランドの私室に無断で入るような無礼はしないだろう。
緊急事態を告げにきたのかとも考えたが、そうだとすれば、真っ先に用件を述べるはずである。
となると、これは。
(侵入者か)
腰に帯びていた剣を抜くよりも早く、背後の人物は音もなく駆けてガーランドの側に近寄ってくる。まるで風のような軽やかさだ。
その素早さに、数多くの戦場を生き抜いてきた、歴戦の武王ですら、たじろいでしまった。
(しまった)
背中いっぱいに広がる、怜悧な刃物の冷たい鋭さ……とは、かけ離れた暖かな感覚。思わず拍子抜けする。
ガーランドは、おそるおそる目線を下にやった。
腰に回されたのは、暗がりでもわかる鮮やかな赤い腕。
証拠はたったこれだけであるが、不躾な侵入者の正体は、振り向かなくともガーランドにはよくわかった気がした。
「……ストック、だな?」
背中に押しつけられた頭らしき箇所が、上下にゆっくりと動く。
分かりやすい肯定の動作に、ガーランドは詰めていた息を一斉に吐き出した。軽く腕を回し、強ばっていた肩をほぐす。
「おまえ……夜中に侵入してくるのは止めろつってるだろ……。
暗殺者かと思ってひやっとするって前も言わなかったか?」
軽口をたたきながら首を後ろにひねる。
そこには、案の定、ストックがいた。
随分と軽装である。いつもは身につけているはずの剣がどこにも見あたらないところからすると、丸腰でここまでやってきたようだ。
なによりもガーランドの注目を引いたのは、氷のように冷え冷えとした彼特有の鋭さが、全く感じられないことであった。
無防備、という言葉が武王の頭をかすめる。
今のストックはどこかおかしい。少なくとも、普段の彼ではない。
整った顔はべったりと王の背中にくっつけられており、ガーランドの目からは、彼の表情を伺い知ることができなかった。
「おーい。聞いてるか?ストック」
問いかけても、相手は微動だにしない。一際大きな風が吹き、自分のマントと相手の髪を揺らしていく。
寒い。ガーランドはくしゃみをした。
シグナスは熱帯の砂漠にあるとはいえ、暑いのは日が照っている間だけの話。夜は急激に冷えるのだ。砂漠で凍傷になった輩の話は飽きるほど聞いている。
「夜風も長い間身体に浴びると毒になるぜ。だから、部屋に入れ?な?」
優しく語りかけると、相手はゆっくりと身体を離し、部屋の中の暗がりまで後退した。
その表情は、長い前髪のせいで陰になっている。
だから、一文字に結ばれている口元のほか、やはりガーランドには今ストックがどのような表情をしているのかわからなかった。
シグナス王もまた部屋にはいると、バルコニーの窓を閉め、ストックと向き直る。
雲が風によって流れたのか、ガラス窓を通して月の光が一直線に部屋に差し込む。
白い光線はストックを照らし、細い姿を浮き彫りにしていた。
ガーランドは近寄ると、彼の前髪をかきあげる。
普段なら嫌がるであろうこの動作も、今のストックはされるがまま。
露わになった彼の顔は……寄っている眉、微かにふるえている口元、潤んだ薄い色の双眦……驚いた事に、今にも泣き出しそうにゆがめられている。
ニヒルで、感情の起伏の差が少ない、無表情な青年の面影はみじんも感じられなかった。
実は、ストックの異変は今回が初めてではない。
夜中、たった一人で忍び込んできたストックに、背後から抱きつかれた事は過去に数回あったのだ。
最初にやられたときは、賊かと思い、抜刀して危うく切りかかる直前まで来た事もある。
その時のストックは、避けようとせず、今と同じように立ったままじっとガーランドを見つめていたのだった。
……今にも泣きそうな顔をして。
この状態のストックは、絶対に口を開こうとしない。
「はい」「いいえ」を首の振り方で表現したり、ガーランドの衣服にしがみつき、真っ直ぐ顔を仰ぎみる様はまるで子供のようだった。
どうしたのか。
何かあったのか。
ガーランドには知る術がないし、詳しく知ろうとも思わない。
第一、本人に問うても答えてくれないばかりか、ふとした瞬間に、ストックは姿を消してしまうのだ。
昼間に会う彼は、普段と変わらない涼しい顔をしていた。夜のことをさりげなく聞いても「寝てた」と言うばかりである。
どうやら、異変の時の記憶は抜け落ちているらしい。
そして、彼の仲間や自分の部下たちは、ストックの異変に気づいていないのは、確かなようだ。
それどころか、夜中に宮殿に侵入している事すら夢にも思っていないに違いない。
なので、相談する事は、はばかれた。
ストックの異変は、今のところガーランド一人の胸の内にしまっている秘密である。
「今日は、どうしたんだ?」
髪の毛をクシャクシャに撫でてやる。
いつもなら間髪を入れずに「やめろ」と鋭い声が聞こえてくるだろう。
だが、彼は無言でされるままである。乱れた髪を直そうともせず、直立し、今にも泣きそうな表情のままでじっとシグナスの武王を見つめている。
正直、ノーリアクションはやりづらかった。
「腹減ってねぇか?」
「酒でも飲むか?」
敢えて明るい調子で訊ねても、ストックは無言のままである。
武王の声だけが、暗い室内に響き、あっという間に闇に溶けていく。
ガーランドは段々と、人形に話しかけている気分になってきた。
どんなに話しかけても、相手は相づちすら返してくれない。
瞬きや呼吸も少ないので、本当に生きているのかだんだんと疑わしくなってくる。
不安になった王は、だしぬけにストックの両肩を掴んだ。
布越し感じる微かな暖かさは、彼の血潮を感じさせた。
とりあえず、生きてはいるようだ。
ほっとしたのもつかの間。
肩を掴まれたストックが目にみてとれるぐらい、動揺しているのに気づき、驚いた。
身体を小刻みにふるわせ、潤んでいる目元に明らかに恐怖の色が浮かんでいる。
そして、微かに聞こえてきた、掠れた声。
――ちち、うえ
急に、力強く肩を握ってしまったので、驚かせてしまったのか。
(ヤバイ……)
ガーランドはとっさに口を開いた。ストックの涙を弾きとばすようにと、努めて明るい声を出す。
「もう遅いし、寝ようぜ!俺も一緒に寝てやるから」
すると、彼の表情は一変した。
花が一斉に咲いたかのようにパッと明るくなったのだ。
寸前まで泣きそうになっていたのが嘘のようである。
作品名:【腐】よいこのねるじかん 作家名:杏の庭