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鼓動の滴2

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 駆は何度も瞬きして、そこに立つ人物を凝視した。
 混乱を通り越して、一瞬パニックになる。
 今までのことは壮大な夢だったのか?とまで考えたが、一部残っていた冷静な思考が、あれは兄の変装ではなかったのかもしれないという回答をなんとか絞り出した。
 混乱が去ると、怒りがこみ上げてくる。
 どこの誰だと誰何する駆に構わず、グレイマスクはあの挑発的な態度で勝負を誘う。
 そして、駆は不思議な体験をすることになった。
 苦手なはずの「左」で、グレイマスクを圧倒したのである。
 グレイマスクの正体は、果たして幼馴染の奈々だった。
 駆がセブンと呼ぶ少女である。
 なぜ彼女がこんなにサッカーがうまいのか、
 それを聞くことはできなかったが、彼女は駆に衝撃的な事実を告げた。
 心臓に致命的な損傷をうけたにも関わらず、奇跡的に助かったのは心臓移植を受けたからだと、彼女は静かに語った。
 移植・・・・・・
 臓器移植、むろん言葉は知っている。
 けれど、それが自分に関係するなどと考えたこともなかった。
 では、この胸にあるのは?
「心臓の提供者は、傑さんなのよ」
「・・・・・・え?」
 間髪いれず出された回答に、駆は文字通り言葉を失った。
 永遠に失われたと思った兄が、こんなにも近くで脈打っていたなど、想像を絶する事態だった。
 それがどういうことなのか、すぐには理解できなかった。
 駆が頭の中でぐるぐるしていると、その混乱を知らない奈々はさらに先を続けた。
「だから駆忘れないで、ここに入っているのは傑さんの心臓だけじゃない。あの人が果たせなかった夢も一緒に詰まってる・・・・・・」
 駆はのろのろと顔を上げた。
 まだ思考はついてきてはいなかった。
 ただ、奈々の言葉がそのまま言葉として頭に入ってくる。
「だから駆は、決してサッカーを諦めたりしちゃダメ!」
 とっさに駆は走り出していた。
 頭はまだ混乱している。
 だけど、もう立っていられなかった。
 聞いていられなかった。
 奈々の静止の声を振り切って、駆は闇雲に足を動かしていた。
 とにかく、今はゆっくり考えたかった。
 これ以上何か聞いたら、意味もなく叫び出しそうだった。
 どうやって家まで帰ってきたか覚えていない。
 ともすればめちゃくちゃになりそうな思考を、ただ懸命に抑えつけて玄関の扉に縋りついた。
 心臓が早鐘のように響く。
 母親の声が聞こえた気がしたが、今の駆には何を答えることもできなかった。
 傑の部屋に飛び込み、一人になってみると今度は涙がこみ上げてきた。
 心配する両親の気遣いさえも、今は受け入れる余裕がない。
 ふと見上げると、部屋に飾られている写真には幼いころの自分と兄が屈託なく笑っていて、なぜか無性に哀しかった。
 一人になれば少しは冷静に考えをまとめられると思っていたのに、次から次へと幼いころの思い出ばかりが蘇ってきて、涙ばかりが積もってゆく。
 考えてみれば兄が亡くなってから、あまり一人で静かな時間を過ごした記憶がない。
 たぶん、まわりが気をつかっていたのだろう。
 そして自分自身、無意識に兄の事を考えまいと努めていたに違いない。
 こんなにもすぐ近くに・・・、いてくれたのに。
 駆は、兄の死を受け入れたというより、忘れようとしていたのだ。
 それは幼い頃の思い出ごと、失うということなのに・・・・・・
 それこそが本当の喪失なのだと、駆はようやく気がついた。
 傑は、いつも弟を大切に想っていた。
 思えばどんな時でも味方だった。
 ときに厳しく接することだって、結局は駆のことを思ってのことなのだ。
 以前、サッカー部の先輩たちが口を揃えて傑は弟に甘い、と愚痴をこぼしていたが、当時そんなことは絶対ないと思っていた。
 実際、部活の際に私情を挟んだことはないし、贔屓にするとかでもない。
 ただ傑の極度のブラコン説は、実は同級生の仲間連中にはとても有名なことだったらしい。
 駆には、未だに信じられないが。
 いつしか憧れの偶像になってしまった兄の、ただの生身の人間としての面をあれこれ思い返すにつれ、かけがえのない肉親を失ったのだという現実が、じわじわと心を押しつぶしてゆく。
 身を引き裂かれるほどの悲しみが、どうしようもなく込み上げてきた。
「兄ちゃん・・・!」
 傑のベッドにうつ伏せたまま、白いシーツに泣き濡れた顔をひたすら押し付け、駆の背中は暗闇の中でいつまでも嗚咽に震えていたのだった。


 いつの間にか、夜が明けていた。
 カーテンの隙間から眩しい朝日が覗き込んでいる。
 駆は、窓辺へと歩いていき、窓を大きく開け放った。
 とにかく悲しかった昨夜が嘘のように、駆は清々しい気持ちで朝日に顔を向ける。
 そして、ふと確認するように胸元を押さえた。
「おはよう、兄ちゃん」
 昨日の晩、久しく聞いてなかった兄の声を聞いた気がした。
 ここに兄がいる、と聞いたからだろうか?
 すると窓から入り込んだ風が、いたずらに机の上のノートのページを捲った。
 それが日記だと気がついて、悪いなとは思ったけれど、好奇心には勝てずぱらぱらと読み解いていった。
 そこに峰先生が言っていたように悪夢に悩まされていたらしい記述を見つけ、傑が己の死を予感していたのではないかと彼女が語ったことを思い出した。
 そしてあの事故の日――
 意外なことに、日記の字は躍っていた。
 久しぶりに見たという、いい夢。
 それは、幼いころに二人で誓い合った夢が、まさに思い描いたまま実現したという、傑の夢。
 ――いや、傑と駆の夢。
 ノートに綴られた傑の字の上に、ポトンと大粒の涙が落ちた。
 傑は忘れていなかった。
 ほんの子供の頃の、夢物語のような約束を。
 大人になってゆくにつれ、いろいろな壁にぶつかり、すっかり諦めてしまった駆が忘れてしまった夢を・・・・・・
 兄ちゃんは、待っていてくれたのに。
 僕は気がつかなかった。
 とっくに置いて行かれたのだと思っていたんだ。
 そう思う方が楽だったから・・・・・・
 でも、そうじゃなかった。
 むしろ傑をピッチに置き去りにしたのは駆の方だった。
「もう逃げないよ」
 そんなことできない。
 約束どおり、今度こそ一緒にピッチに立つよ。
 無条件で信じて待っていてくれた兄が、今は自分の命になって見守っていてくれる。
「サッカー続けるよ、兄ちゃん」
 逃げるな、と兄は言った。
 その言葉通り、サッカーを続けようと思う。
 本当の意味で、兄と誓い合ったあの夢は、二度と果たすことは出来ないけれど・・・・・・
 ワールドカップは二人の夢だから。
 駆の掌に、傑の心臓の鼓動が優しく伝わってきた。



 事故から一年が過ぎ、サッカー部に選手として復帰した。
 相変わらずレギュラーにはなれそうにもない。
 このままでは中学生最後の試合もゼッケンを貰えないだろう。
 結局のところ、それはひたすら逃げてきた今までの自分に対する報いなのだ。
 生まれ変わったつもりで今日まで頑張ってきたが、一度失われた信用はそう簡単に拭い去れるものではないということである。
 しかも練習を上級生に任せきりの監督には、まったく伝わってない。
作品名:鼓動の滴2 作家名:るう