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ライクリー・ラッズ!

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 王子にとっての漫画はなにものにも代えがたい存在だった。例えば、行き場のない感情を持て余す者がタバコに求めるように、音楽に、哲学に、走ることに打ち込む者が居て、そうするように。物語の世界に浸っていられる間は、王子は王子自身から逃げられた。主人公になりきるのもいい。または第三者の目線から深くのめり込みきってしまうのもいい。そんな、ありふれた現実逃避の常套手段だった。けれど現実に戻ると日常は容赦なく王子を打ちのめした。現実での王子はいつだってサブキャラで、三下の顔もろくに描かれていない、重要ではなく物語や誰かを立てるための存在だった。少なくとも、王子はそう感じていた。いくら走っても縮まらないタイムと距離。ちっともついて来ない体力。まるでどっかの主人公みたいに飛び抜けた才能の塊みたいなヤツ。
「……俺なんか」
 王子は止まったままのページに気付いて、一枚だけ捲った。物語に没頭しなければ。なにも考えるなと言い聞かせる。どうせまた朝はやってくるのだから、と。



 いつからそうだったのか。いつからそうなっていたのか。それは王子自身にもよく分からない。ただ自分自身でも気付かない内に、その膜は王子の周りを取り囲んで、包囲していた。
 朝起きるのが億劫になった。朝食を口に運ぶのが億劫になった。靴の紐を結んで立ち上がるのが億劫になった。電車の待ち時間が、満員電車が、大学まで、構内まで歩くのが。
 要するに、生きるのが億劫になった。原因はいくつかある。とりわけ特別な出来事やきっかけなどがあった訳ではなく、ただとりとめない日常の些細な事が積み重なった結果だ。それはどうでもいい事のような気もするけれど、実際問題、王子にとってはどうでもよくない事だった。
 息を吐き、吸う。
 その毎度の繰り返しが辛く、しんどいものだと気づいたのはいつだったか。息を吸い、吐くというなんでもない日常的な所作が、ひどく重苦しさを伴うという事に気づいたのは。
 どうしようもなく、孤独だった。疎外感ばかりがこの身を覆い、仲間達に囲まれている時ですら、笑っている自分をどこか傍観している自分が居た。

 息をする事。
 それがとても難しい。
 そんな自分に嫌気がさした。
 これ以上、俺は一体なにを望む?なにを欲がるんだ?仲間達に囲まれ、笑っている自分。それだけで充分じゃないか。
 いや、充分じゃないのか?
 自問するたび息苦しくて、胸がつまりそうになった。

 毎日が怠惰と焦りと安心と疲労とで覆い重なり合い、グレーのもやもやいらいらとしたものが常に自分の体の周りを覆っているような気がした。

 そうしてぼんやりと佇む王子の元へ、やがて神童がやってきた。
「ニコちゃんはね、ほら。一度挫折しちゃってるから、うん……だから王子にもそんな思いさせたくないって思いがあるんだと思うよ……うん」
 ぽん、と肩を叩いて去って行った。
「王子さんってさあ、ほんと見かけのまんまナイーブだよね!それって意外性のかけらもないし、つまんないよ!」
「そうそう、僕らみたくバカになっちゃいなよ!だって、そうやって動かないままだと鈍っちゃうよ、色々とさあ」
 双子がやってきて言った。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ、丈夫ナカラダヲモチ、慾ハナク、決シテ瞋ラズ。東ニ病気ノ子供アレバ、行ツテ看病シテヤリ。西ニ疲レタ母アレバ、行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ。南ニ死ニソウナ人アレバ、行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ。北ニケンクワヤソシヨウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ。ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ、ミンナニデクノボートヨバレ。ホメラレモセズ。クニモサレズ。サウイウモノニ。ワタシハナリタイ」
 ムサが朗読していった。
「あのさあ、よくさあ、俺にも分からねえけどさあ、漠然とした不安ってのはあるよなあ。俺もさあ、時々思うんだわ。無駄な雑学とか知識ばっか増えてさ、披露してさ、それが一体なんになんのかって。それって就職試験になんか役立つの?って、そりゃオメー……なあ?でも好きだからしゃーねえじゃんかよ……」
 キングが慰めなのか相談なのかよく分からない事を言った。
「あーなんだ。ニコちゃん先輩もあれで心配してるんだ。知らないだろうけど、というか口止めされてるんだがな。ハイジも、お前のためにあーでもないこーでもないとレシピを作ってる。俺は専門外だからお前の心象的なことについては何もアドバイスは言えないけど……ああ、そうだ。今度クラブに連れて行ってやろうか。踊ると結構ストレス発散出来るんだぞ」
 ユキが情報を提供していった。
「今日こそは食べさせてやるからな。そんな青白い顔して、ジョギング中に倒れられたら困る」
 ハイジがそう宣言していった。
「……多分、走り方とかって、走りだしてる内に思い出すんだと思います」
 走が、やけに哲学的なことを言って、走り去って行った。
 王子は、その背中をぼんやりと眺めた。視界の端で、今にもぽきりと折れそうな脆い枯れ枝が、風に吹かれてゆらゆら揺らめいている。ああ、もうすぐ秋なのだと思った。そうして冬には箱根が待っている。すぐにもやって来るだろう限りなく近い未来が遠のいていく。


作品名:ライクリー・ラッズ! 作家名:saki105