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泡沫の恋 前編

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 それは多分突然だった。
 いや、突然、とは違うのかもしれない。
 少なくともそれに至るまでの時間は10年あった。
 10年。
 それは二人が初めて出会ってから積み重ねてきた時間だった。
 その十年に二人は傷つけ合い、憎しみ合い、自らも傷ついて。
 そうして、気づいた。

「好きなんだ」
「はあ?」
「シズちゃんのことが」

 だからこれは突然であって突然ではない。
 けれど必然でもない。
 どうしてこうなってしまったのかは知らないが、気づけばこの執着は恋情だった。
 それだけの話だ。
 殺したいほど憎んでいるというのは、殺されてもいいほど愛しているということだった。それに気づいた、それだけの話。
 けれどやはり突然すぎるその言葉に、言われた相手は酷く驚いた。

「・・・何言ってやがる」
「シズちゃんのことが好きだって言った」
「なんでそうなる」
「気づいちゃったんだから仕方ないだろ」

 今まで殴り合っていたから二人ともボロボロだった。
 殴り合っている最中に恋を自覚するとかありえないよね、と臨也は自嘲する。
 けれどそれはきっと二人に相応しい。
 だからシズちゃん、俺のものになってよ。

「お前の言うことは信用できねえ」

 静雄は吐き捨てるように言った。
 当たり前だ。臨也自身ですらそう思う。これほど薄っぺらい、安っぽい言葉もない。
 どれだけ真摯な言葉も、この口から出たとたんに嘘になってしまう気すらした。
 だけど。

「俺のことは信じなくていいよ、でも」

 臨也は静雄を見上げる。
 ああ、やっぱり好きだな。そう自覚する。
 煙草をくわえながら自分を見下ろす男を、臨也はとても好きだと思った。 

「俺の10年間まで否定しないで」

 静雄は目を見張った。
 10年。
 それはとても長い。まだ30にもならない二人にとって、それはとても長い時間だった。
 その10年という間、二人はお互いしか見ていなかった。見えていなかった。
 そうだ、10年だ。
 10年という長い間、いつでも近くに感じていたのは目の前のこの男だった。
 どれほど親しいと思える人間でも踏み込ませなかった場所に、いつの間にかこの男は入りこんでいたのだ。
 それがどれだけの意味を持つことなのか、この男はわかっているのだろうか。本当に?
 静雄は目を閉じる。
 しばらく考えてから、臨也を見つめた。

「じゃあ」
「うん」
「てめえが一生喋らないって言うんだったら、いい」

 そうしたら今の言葉を信じるし、お前のものになってやる。その言葉を静雄は煙草の煙とともに吐き出した。
 多分、無理だろうけれど。ありえない。臨也にとって『言葉』がどれほどの意味を持つのか、静雄には分かっていた。
 だからこれは、遠回しな断りの言葉だった。
 無理難題を突きつけたかぐや姫のように。
 だって、そんなことはありえない。この男が自分のことを好きだなんて。
 信じて、傷つくのは嫌だった。その言葉を喜んでしまう自分はもっと嫌だった。
 いつか傷つくのなら、初めから喜びなんか知らなくてもいい。
 好きだなんて、聞きたくなかった。
 おまえにとっても10年なら、俺にとっても10年だ。静雄は心の中でそうつぶやいた。
 だからこの10年をなかったことにするような言葉は聞きたくなかった。
 傷つけあう関係であることの何がいけない。
 少なくとも、いつか終わってしまう関係よりよほどいいのに。
 そんな静雄の内心などまるで構わずに、臨也はけろりとして言った。

「なんだ」
「そんなことで、いいの」
「そんな簡単なことで、信じてくれるの」

 きょとんとした表情は、いつもより彼を幼く見せた。
 あまりにもあっけないその言葉に、静雄は言葉が出ない。

「そうだよね、俺が紡ぐ言葉は全部嘘になるから、だからシズちゃんはそれを信じられない」
「・・・・・・」
「だったら喋らなければいい。いい考えだ。でもそれは物理的に無理だからさ、シズちゃん?」

 言葉のない静雄をいぶかしむように覗き込んで、臨也はいつものナイフを取り出した。
 銀色に輝くそれは、いつもは静雄に向けられるものなのに。

「今ここで喉つぶしたほうがいい?」
「・・・い、ざや・・・?」
「それともシズちゃんが潰してくれる?」

 嬉しそうに。
 嬉しそうに笑って彼はそう言った。
 駄目だ、と静雄は思った。
 捕まった、捕まってしまった。
 これで自分はもう、この男から離れられない。
 この笑顔は、一生自分を縛るだろう。そういう予感がした。
 黙ったままでいる静雄に業を煮やしたのか、臨也はナイフを喉元にあてた。
 切っ先がほんの少しかすめたのか、赤い血が少しだけ流れる。
 それを見てあわてたように静雄はナイフを握りしめた。

「シズちゃん」
「・・・っ」
「危ないよ。怪我するから手、離して? シズちゃんなら平気かもしれないけどさ」

 今まで散々争っていた相手とは思えないほどの優しい声で、臨也は静雄の手を押しとどめた。
 静雄がゆっくりとナイフから手を離せば、臨也もその刃を下ろす。

「そうだね。下手にやると死んじゃうかもね」

 それにどこが声帯かよく知らないし、と臨也はため息をついた。
 静雄が何を言えばいいのか迷っていると、臨也は服に付いたほこりを払い、服を整えた。
 それから、静雄が何か言葉をはさむ隙を与えずに、にっこりと笑って言った。

「新羅のところに行ってくる」

 ついでに治療もしてもらって来るから、シズちゃん後でね。
 ひらひらと軽く手を振ると臨也は歩き出し。
 そして、静雄がかける言葉を探している間に振り返って、言った。

「そうしたらシズちゃんは、俺のものだよ」
 
 覚悟しといてね、そう言うと臨也はもう振り返らなかった。
 その背中を半ば茫然と見送っていた静雄だったが、我に返ると急いで携帯を取り出す。
 新羅の家はここからならそう遠くはない。
 だから臨也がたどり着いてしまう前に、新羅には話しておきたかった。

「し、新羅」
「静雄?」

 静雄の困ったような声を聞いて新羅は軽く笑った。珍しいと思ったのだ。
 確かに困っている。そんなつもりはなかった、と言ってしまえばそれまでの話だったのに。
 どこから話せばいいのか静雄は戸惑い、とりあえず事の発端から話し始める。 

「臨也に」
「うん」
「好きだって言われた」

 すっげー驚いて、俺。
 静雄の声も言葉も心もとない。小さい頃みたいだ、と新羅は懐かしく思う。
 小学生くらいの静雄はまだ、他人に弱みを垣間見せることもあったのだ。

「気づいてなかったの?」

 新羅はクスリと笑う。
 静雄の沈黙は肯定だろう。新羅は構わずに続けた。

「彼のしてたことはあれだね、母親の愛情が欲しくて、わざと悪いことして気を引こうとする子どもみたいなものだよ」

 キミを独占したくて、キミの気を引きたくて、やってたんじゃない?
 まあ、もしかすると本人も無自覚だったかもしれないけど。それに。

「子どもにしては、やったことはかなり悪辣だけどね」

 そのために静雄は警察に捕まるわヤクザに追いかけられるわ散々な目にあった。
作品名:泡沫の恋 前編 作家名:774