親友の恋
私と彼女は誰よりも近かった。
そして、誰よりも遠い存在だった。
貴族の家に生まれると、何よりもまず特別な義務が生じる。男子ならば家名の存続に対する義務や、または家名を背負って国に従事する義務が。
女子であっても変わらない。
領地や地位を盤石の物とする為に、家の為になる伴侶を捜し、そして子を産む。
私は女としての性を受け、同時に貴族として生まれた。この時点で私の持つ役割は決まっていたと言えるだろう。そしてこの役割以上の特別な何かは存在するはずはなく、そこに私が私である意思は何一つとして必要でもなく、貴族の家に生まれたからこそ私であるのならば、私が家の為に生きる事こそが、即ち私なのだ。
残念ながら私の家には、私以外の子は産まれなかった。
貴族の中では疎ましがれる程の尊敬すべき堅物の父は、母との間に儲けられる子だけを望んだ。周囲の、いや祖父母の命令とも言い換えられる勧めを固辞し続け、愚かしい頑固さによって嫡子が生まれず、私の代で嫡流が途絶える事となった。
無論、私の責任ではない。しかし、この事によって私は、母がもう子を産めぬと確定された段階で、他の貴族の誰よりも大きな義務を女子の身で負う事となった。
嫡子ではないにしろ、私だけに流れる父の血故に、何れは家が求める者を与えられ、家が望む生き方をしなければならない。そんな私を思いやってか、父や母は揃って「お前のやりたいようにすれば良い」と言ってくださった。
憐れみとも取れる言葉ではあったが、真実感謝すべき言葉だと知っている。知っているからこそ、この言葉に甘えてはならないと、胸に刻みつけなければならなかった。
私と父と母。この三人だけが全てであるならば、二人の言葉通りに私を貫く事が可能だったろう。
だが私達は貴族の家に生まれ、貴族として生き、貴族であらねばならなかった。もしもそれを捨てるような事となれば、これまで私達を真の貴族たらしめる為に尽力してくれた者達に、如何なる示しが付くだろうか。
爵位を賜るまでの功績を遺した者や、私達の代までその品格を保ち続けた代々の者達。何よりも私達に生きる糧を与えてくれた領民達。彼等を護る事こそが私達貴族の、最も大切な役目であり、王の勅命よりも遙かに崇高な義務ではないだろうか。
現実として私をこうして世に送り出してくれた過去の全てを放棄して得られる物に、どの様な価値があるだろう。少なくとも、貴族たる私以上の価値を、私自身が見出せなかった。
私は家の為に生きる事は望んでいない。
貴族として生きなければならなかった。
それが私だった。
彼女と初めて出会ったのは、彼女の社交界デビューの日だった。
同じ伯爵家の一員として生きる彼女の存在は、勿論出会う前から知っていた。歳が近い事や、彼女もまた一つの家名を背負う唯一の生であったからだ。
私達女が公の場に出る事を許されるのは、一つの駒として成熟した時である。生まれてから殆どの時間を、領内の限られた場所でのみ過ごし、その間に教えられるのは貴族としての振るまいだけ。
物腰の柔らかな言葉遣いから始まり、誰が相手になろうと飽きさせない話術や、見る者を惹き付ける流れるようなダンスなど。それらは貴族として生きる女子には、不可欠な要素となっていた。
領地の拡大を望むならより高い地位を、裕福な生活を望むなら潤沢な資金を。これらを保有する男性を惹き付ける事こそが、貴族の女としての役割なのである。
もっとも私は、貴族としての生き方を嫡子として生きる事を望み、社交的な話術よりも政治に必要な弁術を選び、優雅なダンスよりも剣術を選んでいた。
周囲からすれば奇異な存在だったろう。格式に拘る祖父母だけでなく、母さえも呆れさせるくらいに、私はきっとどの男性よりもドレスから遠く生きていたのだから。
おそらく彼女もそう思っているだろう。――少なくとも彼女が目の前に来るまでは、何の疑いもなく思っていた。
いつもの様に男のような衣装を纏い、腰には重い剣を帯びている私を、彼女も穏やかに微笑みを浮かべて挨拶を終わらせた後に、陰で物笑いの種にするのだろうと。
彼女という人格を、私は全く考えていなかったのだ。
結果として、私の読みは大きく外れてしまった。
彼女は噂に聞いていた通りの、微風を連想させる優しい微笑みを浮かべながら、柔らかな両手で私の手をそっと包み込み、まるで可愛い小鳥の囀りの様に語りかけてきた。
「ずっと貴女にお会いしたかった。お父様に教えられていた通りにこんなにも素敵な方で、今感じている喜びをどう言葉にして良いのか判りません。今日という日を特別な日にして頂けて、どれ程の感謝を口にして良いのかも……。本当にありがとう」
何をそんなに感動する必要があるのか。
伝え聞いただけの“私”に心酔する言葉に華美さはなかったが、周囲で他の誰かが聞いていれば、鼻白むのは間違いない。
私自身がそうだった。
私は確かに嫡子としての振る舞いを完璧にこなしていた。齢十を数える頃には、祖父のにさえ「お前が男子であったなら」と、無念を感じさせる声音で言わしめた程に、私はそれだけの務めを己に課しながら生きてきていた。
とは言え、結局生まれた性は、どの様な努力をしても変えられない。
私がどれだけの思いと行動でもってそれを示してみても、他者の目に映っているのは私ではなく、私の肩に乗せられている伯爵家の家名だけ。貴族の女にとってはそれは避けられない現実だと判っていても、私にとっては屈辱的な話に他ならない。
彼女は、そんな私が選ばなかった道を、当然の務めとして選んだ人だったのだ。
だからこそ最初は馬鹿にされているのだろうと感じ、同時に決して彼女のようにはならないと強く思った。
しかし彼女もまた、一人で伯爵家を背負う存在として、確固たる思いを胸に秘めていたと気付いた時、彼女に対して自分がどれだけ卑しく物事を考えていたかを気付かされた。
『私は私に命を授けて下さったお母様を、心から尊敬しているの。男に生まれなかったからではなくて、女に生まれたからこその務めがあるの思う。それを否定してしまっては、私達自身が否定されてしまう。そう思わない?』
もしも私が男として生まれてきても、子を成せる女性の存在がなければ同じ事。
血脈とは男と女が存在するからこそ繋がっていく。家や地位ではなく、彼女は人としての本質的な話を、天真爛漫な明るさでサラッと言ってしまうのだ。
私が何事にも特別な意味を求め、彼女はありのままをただ凡庸に受け止める。そうした性格の違いからか、より彼女の話はいつも私の心を刺激してきた。――悪い意味で。
『お父様は良い家柄の方を、早く見つけなさいと言うけれど、それだけだと愛が足りないと思うの。心から好きになった人の子供だからこそ、誰よりも慈しんであげられると私は思うし、だからこそ私の全てで護ってあげたいと感じられるようになると思う』
彼女はいつも理想的な夢を柔らかく語り、いつも私に悔しさを感じさせる。
結果的に何れ私達は、お互いに次の代へと遺す術を得るだろう。だが後に、彼女の家は彼女の思いも受け継がれ、私の家には私は残らない。