親友の恋
私という個が存在する意味など無くても構わない、無いのが当然だと信じていても、何度も彼女の言葉に陰鬱な気持ちに突き落とされた。
彼女を知れば知るほど、彼女の言葉を聞けば聞くほど、私は自分の努力が無駄なものだと言われているようで、どれだけ口惜しい気持ちにさせられたのだ。無論彼女には、私に対する当てつけの気持ちは微塵もなく、この様な話をするのも私だからこそだった。
彼女もまた貴族の女として生きなければならないと判っているからこそ、今だけは夢を語りたいと思ったのだろう。しかしそんな事さえも容易ではなかったのが、個の浅慮が家の大事になってしまう貴族の世界だったのだ。
だからこそ私は彼女を夢から覚まそうとした。
足下を掬われるような話をして、もしも誰かに騙されるような事になれば、取り返しの付かない事になり、同時に家や親族に傷が付くと。
そうした私の言葉には、彼女はただ「心配してくれてありがとうだけだったが。
確かに心配していたのは事実だ。ただそれは、同じ貴族の家を背負う女として、彼女が何か大事を起こしてしまった時に、私までもが同じ目で見られやしないかと、そんな心配だった。
私は心の何処かで、いつか彼女が失敗を犯すかも知れないと思っていたのだ。
だが私は、そう感じながらも彼女との付き合いを止める事が出来なかった。
彼女の周りはいつも、他の誰にも感じられない温もりと優しさに溢れていた。誰もが彼女を好きになるとは言えないが、少なくとも彼女のありのままの優しさに触れた時に、心の尖りが癒されていく事に気付くだろう。
私がそうだったように。
家が違う、生まれが違う、私は彼女ではない。
だからこそ彼女の生き方を、相容れない空論だと蔑みながらも、心の片隅では羨ましく思ってしまった。
結局私は、私の生き方を選んだのではなく、そうしか出来ない不器用で小さな存在でしかなく、彼女と会う度に己の劣等感を刺激され、けれど同時にそれが私に力を与えていた。例えそれが単なる意地だったとしても、彼女から逃げる事は、即ち私自身に負けてしまうのと同意になっていた。
こんな卑屈な思いを胸の奥に潜ませながら、彼女の側に居ながら、彼女に癒されながらも、彼女と違う生き方を全うする事が、自分との戦いだったのだ。
こんなにも愚かな生き方はない。それでも彼女のような物の考え方が出来ない限り、一度決めた道から外れる事は、私にとっては終わりと同じだった。
そんな卑屈な思いのまま時間は流れ、いつしか私と彼女は親友と呼ばれるほどとなっていた。
そしてその頃だろう、彼女は一人の男に恋をした。
仄かな恋。おそらくそう表現しても良いだろう。
まるで小さな子供が戸惑いながら歩むように、彼女はその密やかな恋を胸で温め、私に隠し事をした初めての出来事だった。
もっとも、彼女の清廉たる魂の前に、その隠し事は有って無きが如し。
これといって用も無く私に会いに来ていたのは、私がその頃城勤めをしていたからであり、私の任務する護衛隊と親衛隊は王族を挟んで左右の護りを担っていた。彼女にとっては、言葉は悪いが渡りに船だったと言うわけだ。
そう、彼女の恋の相手は親衛隊に所属する男であり、彼女の視線を追えば、誰かは直ぐに判った。
だがそれは、あまりにも許し難い相手だった。
私と彼女が真逆であるように、彼もまた逆の存在であった。
ただしそれは、私達を一つの国という共同体として言い表した場合の逆という意味であり、決して相容れられる存在ではなかったのだ。
私の祖父には、古くからの友人がいる。その方は今は一線を退いているものの、嘗ては国家の剣として名を馳せるまでの偉大な方であった。
私も幼い頃から良くして頂き、迷いに立ち止まりそうになった時には、必ず歩み出せる小さな言葉を与えて下さっていた。私を我が子のように可愛がって下さり、だからこそ家名を背負って生きる決意をした私を、心から叱ってもくれるような人だった。
だからこそ私が厳しい護衛官に就任した時には、師としての導き手を買って出てくれた。その師を悩ませるのが、彼であった。
彼は確かに目立つ男だった。
彼の容姿は整っていたが他とは懸け離れ、素っ気ない無い言動も、華やかさに満ち溢れた周囲とは違っていた。
誰とも相容れず、群れず、必要な事以外は口にせず、与えられた任務は完璧にこなす。往々にして口だけになりがちな貴族ばかりを見てきた中では、目に見える彼の行動だけならば私としても好感を持てていた。
しかしそれが理由あっての事だと知ったのは、皇帝が謎の失踪をし、その後に巻き起こる国王達を巻き込んでの混乱の最中であった。
戦争は、これまで見た事のない人の側面を浮かび上がらせてしまう。
命惜しさに役目を降りる者、怯え竦んで泣き喚く者、混乱に紛れて不正を行う者と、数え上げればきりがない。その中でも彼は、彼だけは平素と何も変わりなく見えた。
それを彼女は勇敢だと口にしたが、彼が何も変わらずに居られたのは、彼が最初から何もかも知っていたからだったとすればどうだろうか。
戦に慣れない故に、後手に回る戦況によって次々と兵士達が屍となっていき、それに苦悩や怯える事がなかったのは、彼がそうなるようにし向けていたとすればどうだろうか。
師であってもなかなか確固たる証拠を得られなかったが、状況的に彼が敵国の間諜であるのは明白で、何れこの国が滅びの瞬間を迎える時には、迎え入れてくれる国が別にあるからこそ、彼は死に怯えず平然としていられたと知った時に、彼女はいったい何と言うだろうか。
仄かな悪意が私に生まれていた。否定はしない、事実だ。
毎日のように私は死者の数を数え、護りに神経を尖らせなければならず、彼女はそうする必要がない。
危険な時には屋敷に隠れ、護られ、遠くから死者の魂に祈りを捧げるのだ。
これは私が自ら選んだ道だ。
しかしどうしても優しさだけを追い求める彼女を許せなかった。彼女の理想を壊してしまいたかった。
現実はそんなに甘いものではないと、それを見せてやりたかった。
醜い。いつの間にかあまりにも醜く膨れあがっていた彼女への劣等感から、私は彼女の恋を止めずに、彼の真実も教えなかった。
そして、苛烈し続け、事態が急激に変化していく戦争の中で、いつしか私は彼女に会う機会も無くなっていった。
裁判所の空気は静寂に包まれていると想像していたが、実際は耳障りなざわめきに満ちているのだと知ったのは、漸く戦争が終わってからだった。
もっとも国が女性一人を裁くなどという、前代未聞の裁判だったからこそ、人々の注目を受け、低俗な噂話を語り合うざわめきになってしまったのだろう。
私は傍聴席の片隅で、心を酷く掻きむしられるような思いで、その音を聞いていた。
見つめているのは、凛とした姿で証言台に立つ彼女の後ろ姿だった。
今、彼女は彼の犯した罪で裁きを受けていた。