何色世界
おとぎ話でもしようか。
ここに、一匹の蜘蛛がいる。彼は生まれつきとても力が強くて、感情のコントロールが出来なくて、気が付けばいつも暴れてる、そんな奴だった。
でも本心は、寂しがり屋らしい。この力が嫌で、誰も傷つけないように自分からひとりになっていった。
そんなだから彼はこうやって、誰も通らない、小さな木の葉の下に巣を作っていた。
それがまた、下手なのだ。手先が不器用なのか知らないが、穴だらけでお世辞にも綺麗とは言えない。ただでさえ誰も通らない場所にこんな網では、食いっぱぐれるのは当然だった。
今日も今日とて、俺はひらりと風に舞いながらあの不恰好な巣を目指した。
ガサリと葉をよけて光を入れれば、絹のような糸がきらりと朝日を反射した。
「おはよう、シズちゃん!」
声をかければ、お返しだと言わんばかりに物が迫ってくる。いつものことなので羽を畳んでひらりとかわしてやった。直後、先ほどまで俺が居た場所に穴を開けて、何かが地面に落ちていく。音でわかる。小枝か何かだろう。
「っていうかさぁ、自分で自分ち壊してどうすんの?」
「うるせぇ!」
のっそりと出てきたシズちゃんは、細かった。そりゃ当然ろくに餌にありつけやしないのだから、当然だ。
普通ならもう死んでもおかしくないのに、どういうわけか身体だけは丈夫なようで、今まで生き延びている。
たぶんこの男には、餓死なんて概念がないのだろう。
「ただでさえ編み方が下手なのに。あーぁ、ここだって玉結びになってんじゃん。俺が編んでやろうか?」
「余計なお世話だ!つーか、手前こそ獲物のくせに巣に居座ってんじゃねーよ」
よれよれになった蜘蛛の糸を指先で弾けば、ピアノ線のような感触だった。本人に似て、糸も頑丈らしい。
そんな糸に腰掛けた俺を、悔しそうに見上げてくる。なんでひっかからねぇんだと、呟いた声が聞こえた。
「だぁから、言ってるでしょ?糸くらい見分けつかなきゃ、この世界やってけないよ?」
蜘蛛のくせに、べたつかない縦糸とべたつく横糸の区別もついていないのか。そんな調子で、獲物をとるときはどうしているのだろう。
いやきっと、この男は獲物なんか食べたことがないのだろう。どうやってそこまで大きくなったのか知らないが、いつも何かに切れているこいつが、捕食してる姿なんてとても考えられなかった。
「いっそその力使って獲物捕まえた方が楽なんじゃないの?」
俺としては親切で言ったつもりだったのだが、静雄の顔は見る見る曇っていった。そうして、答えたくないとばかりにふいと背を向ける。
あぁどうやら、地雷を踏んでしまったようだ。
愚かな男だ。いっそ蜘蛛であることを止めればいいのだ。彼は、誰がどう見ても化け物だろう。
「ねぇ聞いてる?シズちゃん?シズちゃーん」
「…ァアうぜぇうぜぇ!!殺す!!」
「殺すじゃなくて、食べるでしょー?」
怒りに任せて物を投げてくる彼に軽口を叩きながら巣から離れた。去り際に、次に来たらぶっ殺すと叫んでいる声が聞こえる。
こんな辺鄙なところにわざわざ俺が出向いてやっているのだ。ちょっとは感謝してくれてもいいのになぁと、俺はほくそ笑んだ。
それからの日、この辺りを暴風雨が襲った。連日続いたそれは、木々を倒し、葉を散らせ、地面を押し流した。酷いものだった。
木陰に身を潜めることでなんとか難を逃れた俺は、惨状を見て回った後でふと彼のことを思い出した。
あの場所は吹きさらしだったはずだ。ふありと、俺は方向を変えた。
見えてきたあの木には多少の被害はあったものの、特に酷くはなかった。そろりと葉を持ち上げれば、彼の巣はあの頑丈な糸のおかげか、ほぼそのままそこにあった。
いやそれだけではない。雨に濡れて、玉のように水滴がついている。まるで宝石のようで、あんな貧相な巣でも、着飾ればそれなりになるのだと驚いた。馬子にも衣装というやつだろうか。
「シーズちゃん」
いつものように呼びかけてみる。でも、返事がなかった。
俺は、もう一度呼んでみた。それでも答えがない。物も、飛んでこない。
嫌な焦りに追われて、俺は巣へと足を踏み入れた。振動で、綺麗だった雫が落ちる。彼は、その巣の真ん中で丸くなっていた。
ぴくりとも動かない。俺は、無我夢中で駆け寄った。
「シズちゃん!」
初めて触れた彼の身体は、とても冷たかった。氷のようなそれに、俺の手は驚いてひっこんでしまう。
まさかと、思ったときだった。
「…いざや?」
掠れた、小さな声が聞こえてきた。ハッとして俺は顔を覗き込んだ。彼はとても、やつれていた。
こう、だっただろか。彼は確かに痩せては居たけれど、それでもこんなに細くはなかったはずだ。
「どう…したの」
俺の口はそれしか訊くことができなかった。シズちゃんが、小さく笑う。
「やっぱり手前は、生きてやがったな」
「ねぇ、どうしたの…?」
答えない静雄に言いようのない不安が押し寄せる。何でもねぇと答える彼の手に触れて、そこで初めて、俺は傷に気が付いた。
見れば、手だけではない。足も、胴体も、全て傷ついている。どうして、こんな頑丈な彼に一体誰がと、考えたところでわかってしまった。
そうだ、この世界の誰だって彼にこんな傷をつけられるはずがないのだ。
「昨日まで、何してたの」
声が小さく震えた。シズちゃんはゆっくり目を伏せて、守っていたとだけ答えた。
あぁやはりそうだ、この木だけ、やけに被害が少なかったのは、そういうことなのだ。
なんて愚かなことをしたのだろう。荒れ狂う風から、打ちつける風から、守り続けていたのか。ずっと。
どうしてと、囁いた声は風に消えた。どこにも居場所のない、彼のたったひとつの心の在り処が、ここだとでも言うのか。
俺は無性に腹が立った。どうして、こんな木を守ったのか。俺を、頼ってくれなかったのか。俺なら、雨風をしのげる場所をいくらでも知っていたのに。
名前を呼んだ。雨に奪われた手のひらの温かさは、戻る気配がない。
「死ぬの…?」
言い放ったのは自分なのに、その言葉は俺の胸を深く貫いた。まさか、死ぬはずがないのだ。
何をしても倒れることのなかった彼が。
静雄はただ小さく、さぁなと答えた。俺は、思いっきり彼の頬を殴りつけた。それでも、何の衝撃も与えられない。ただ己の拳ばかりが、酷く痛んだ。
「ふざけるなよ!勝手に死ぬなんて許さない。シズちゃん、俺を」
俺を、食べろと。
考える前に口からそう零れていた。でも後悔はしていない。彼がここで死に行く様を見るくらいなら、食べられた方がましだった。
シズちゃんは視線を投げてきただけだった。手を伸ばして、俺の右目に触れる。思わず、瞼が落ちた。頬に流れたのが何か、考えたくもなかった。
「なぁ臨也、ずっと思ってたんだ。蝶って、どんな感じなんだ…?」
見えない色が、見えるんだろうと、そう続けた。お前の世界は何色に見えるのかと。
そんなこと、どうでもよかった。俺はその問いかけに、答えることが出来なかった。
どんどん冷たくなっていく。この鼓動を、熱を、彼にあげてやりたい。
不意に、シズちゃんが笑顔を作った。どこまでも不敵で、彼らしい、その笑顔を。
ここに、一匹の蜘蛛がいる。彼は生まれつきとても力が強くて、感情のコントロールが出来なくて、気が付けばいつも暴れてる、そんな奴だった。
でも本心は、寂しがり屋らしい。この力が嫌で、誰も傷つけないように自分からひとりになっていった。
そんなだから彼はこうやって、誰も通らない、小さな木の葉の下に巣を作っていた。
それがまた、下手なのだ。手先が不器用なのか知らないが、穴だらけでお世辞にも綺麗とは言えない。ただでさえ誰も通らない場所にこんな網では、食いっぱぐれるのは当然だった。
今日も今日とて、俺はひらりと風に舞いながらあの不恰好な巣を目指した。
ガサリと葉をよけて光を入れれば、絹のような糸がきらりと朝日を反射した。
「おはよう、シズちゃん!」
声をかければ、お返しだと言わんばかりに物が迫ってくる。いつものことなので羽を畳んでひらりとかわしてやった。直後、先ほどまで俺が居た場所に穴を開けて、何かが地面に落ちていく。音でわかる。小枝か何かだろう。
「っていうかさぁ、自分で自分ち壊してどうすんの?」
「うるせぇ!」
のっそりと出てきたシズちゃんは、細かった。そりゃ当然ろくに餌にありつけやしないのだから、当然だ。
普通ならもう死んでもおかしくないのに、どういうわけか身体だけは丈夫なようで、今まで生き延びている。
たぶんこの男には、餓死なんて概念がないのだろう。
「ただでさえ編み方が下手なのに。あーぁ、ここだって玉結びになってんじゃん。俺が編んでやろうか?」
「余計なお世話だ!つーか、手前こそ獲物のくせに巣に居座ってんじゃねーよ」
よれよれになった蜘蛛の糸を指先で弾けば、ピアノ線のような感触だった。本人に似て、糸も頑丈らしい。
そんな糸に腰掛けた俺を、悔しそうに見上げてくる。なんでひっかからねぇんだと、呟いた声が聞こえた。
「だぁから、言ってるでしょ?糸くらい見分けつかなきゃ、この世界やってけないよ?」
蜘蛛のくせに、べたつかない縦糸とべたつく横糸の区別もついていないのか。そんな調子で、獲物をとるときはどうしているのだろう。
いやきっと、この男は獲物なんか食べたことがないのだろう。どうやってそこまで大きくなったのか知らないが、いつも何かに切れているこいつが、捕食してる姿なんてとても考えられなかった。
「いっそその力使って獲物捕まえた方が楽なんじゃないの?」
俺としては親切で言ったつもりだったのだが、静雄の顔は見る見る曇っていった。そうして、答えたくないとばかりにふいと背を向ける。
あぁどうやら、地雷を踏んでしまったようだ。
愚かな男だ。いっそ蜘蛛であることを止めればいいのだ。彼は、誰がどう見ても化け物だろう。
「ねぇ聞いてる?シズちゃん?シズちゃーん」
「…ァアうぜぇうぜぇ!!殺す!!」
「殺すじゃなくて、食べるでしょー?」
怒りに任せて物を投げてくる彼に軽口を叩きながら巣から離れた。去り際に、次に来たらぶっ殺すと叫んでいる声が聞こえる。
こんな辺鄙なところにわざわざ俺が出向いてやっているのだ。ちょっとは感謝してくれてもいいのになぁと、俺はほくそ笑んだ。
それからの日、この辺りを暴風雨が襲った。連日続いたそれは、木々を倒し、葉を散らせ、地面を押し流した。酷いものだった。
木陰に身を潜めることでなんとか難を逃れた俺は、惨状を見て回った後でふと彼のことを思い出した。
あの場所は吹きさらしだったはずだ。ふありと、俺は方向を変えた。
見えてきたあの木には多少の被害はあったものの、特に酷くはなかった。そろりと葉を持ち上げれば、彼の巣はあの頑丈な糸のおかげか、ほぼそのままそこにあった。
いやそれだけではない。雨に濡れて、玉のように水滴がついている。まるで宝石のようで、あんな貧相な巣でも、着飾ればそれなりになるのだと驚いた。馬子にも衣装というやつだろうか。
「シーズちゃん」
いつものように呼びかけてみる。でも、返事がなかった。
俺は、もう一度呼んでみた。それでも答えがない。物も、飛んでこない。
嫌な焦りに追われて、俺は巣へと足を踏み入れた。振動で、綺麗だった雫が落ちる。彼は、その巣の真ん中で丸くなっていた。
ぴくりとも動かない。俺は、無我夢中で駆け寄った。
「シズちゃん!」
初めて触れた彼の身体は、とても冷たかった。氷のようなそれに、俺の手は驚いてひっこんでしまう。
まさかと、思ったときだった。
「…いざや?」
掠れた、小さな声が聞こえてきた。ハッとして俺は顔を覗き込んだ。彼はとても、やつれていた。
こう、だっただろか。彼は確かに痩せては居たけれど、それでもこんなに細くはなかったはずだ。
「どう…したの」
俺の口はそれしか訊くことができなかった。シズちゃんが、小さく笑う。
「やっぱり手前は、生きてやがったな」
「ねぇ、どうしたの…?」
答えない静雄に言いようのない不安が押し寄せる。何でもねぇと答える彼の手に触れて、そこで初めて、俺は傷に気が付いた。
見れば、手だけではない。足も、胴体も、全て傷ついている。どうして、こんな頑丈な彼に一体誰がと、考えたところでわかってしまった。
そうだ、この世界の誰だって彼にこんな傷をつけられるはずがないのだ。
「昨日まで、何してたの」
声が小さく震えた。シズちゃんはゆっくり目を伏せて、守っていたとだけ答えた。
あぁやはりそうだ、この木だけ、やけに被害が少なかったのは、そういうことなのだ。
なんて愚かなことをしたのだろう。荒れ狂う風から、打ちつける風から、守り続けていたのか。ずっと。
どうしてと、囁いた声は風に消えた。どこにも居場所のない、彼のたったひとつの心の在り処が、ここだとでも言うのか。
俺は無性に腹が立った。どうして、こんな木を守ったのか。俺を、頼ってくれなかったのか。俺なら、雨風をしのげる場所をいくらでも知っていたのに。
名前を呼んだ。雨に奪われた手のひらの温かさは、戻る気配がない。
「死ぬの…?」
言い放ったのは自分なのに、その言葉は俺の胸を深く貫いた。まさか、死ぬはずがないのだ。
何をしても倒れることのなかった彼が。
静雄はただ小さく、さぁなと答えた。俺は、思いっきり彼の頬を殴りつけた。それでも、何の衝撃も与えられない。ただ己の拳ばかりが、酷く痛んだ。
「ふざけるなよ!勝手に死ぬなんて許さない。シズちゃん、俺を」
俺を、食べろと。
考える前に口からそう零れていた。でも後悔はしていない。彼がここで死に行く様を見るくらいなら、食べられた方がましだった。
シズちゃんは視線を投げてきただけだった。手を伸ばして、俺の右目に触れる。思わず、瞼が落ちた。頬に流れたのが何か、考えたくもなかった。
「なぁ臨也、ずっと思ってたんだ。蝶って、どんな感じなんだ…?」
見えない色が、見えるんだろうと、そう続けた。お前の世界は何色に見えるのかと。
そんなこと、どうでもよかった。俺はその問いかけに、答えることが出来なかった。
どんどん冷たくなっていく。この鼓動を、熱を、彼にあげてやりたい。
不意に、シズちゃんが笑顔を作った。どこまでも不敵で、彼らしい、その笑顔を。