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泡沫の恋 後編

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 静雄が帰宅すると、事務所にはだれもいなかった。
 臨也が今日は休みにすると言っていたので、波江は来てないようだ。
 俺の休みに合わせなくてもいいのに、と静雄は思う。
 波江さんに迷惑ばっかり掛けやがって。
 ぶつぶつ言いながら奥へと足を向けた。キッチンからいい匂いがする。甘い香り。ホットケーキかな。

「お帰り」

 扉を開けると臨也が何か作っていた。静雄は空腹であることを思い出す。
 少し気まずいが、「手伝う」と臨也のそばに寄った。

「じゃあ、コーヒーセットして」

 臨也は苦笑しながら静雄に指示を出した。
 空腹は最大の調味料と言うが、仲直りにも効果的なようだ。
 まあ、喧嘩なんかしてないけど、っていうか俺何も悪いことしてないけど、ね。
 だってせっかく言葉が二人の間に存在するのだ。有効に使いたい。
 事の最中にこみあげる言葉を素直に口にして何が悪いというのだ。
 だからこの怪我は、ただ単に静雄が照れただけだ、と臨也は受け取っている。
 まあ、照れただけでアバラを折られるとは思わなかったけど。
 愛を囁くのも命がけだな、と臨也は笑った。

「何笑ってやがる」
「え? シズちゃんお腹すいてるだろうと思って」

 昨夜いっぱい運動したもんね、と臨也が囁くと、静雄は顔を赤く染めた。それから小さく「死ね」と呟く。
 臨也はそんな静雄を横目に皿とカップを用意した。
 コーヒーメーカーからはコーヒーの良い香りが漂っている。
 静雄は自分のカップに砂糖とミルクを足していた。よくあんなに砂糖を入れて太らないよね、と臨也は思った。やっぱ運動量が違うのかな。
 まあ、俺も運動量が増えたけどさ、いろんな意味で。
 二人の暮らしは時に甘く、時にエキサイティングで。
 今夜は寝かさないよ的な時もあれば、このままじゃ一生目が覚めないかも的な場合もあり。波乱万丈ではあるが、それなりに楽しい。何より幸せだった。
 二人の間に『言葉』がなかった時は、より分かり合い穏やかではあったのだが、臨也は今のほうが幸せだと思うのだ。

 ・・・やっぱり愛を囁けたほうがいいに決まってるしね。

 最初に静雄に出された条件を臨也は守れていないわけだが、静雄はそれに関して何も言わない。
 なかったこと、になったのだろう。告白自体をなかったことにされなくて本当に良かった。

「シズちゃん」

 皿にホットケーキを乗せながら、臨也は静雄を見ずに言った。

「好きだよ」

 静雄は冷蔵庫からバターとシロップを取り出しながら、やっぱり臨也のほうを見ないまま呟く。

「・・・死ね」

 シズちゃんの『死ね』は『好き』と同義語なんだよね、なんて頭のネジがゆるんだようなことを考えながら。
 臨也は静雄のために作ったホットケーキを静雄の前に置いてやり、自分は静雄が入れたコーヒーをおいしそうに飲みながらもう一度言った。

「でも俺は好きだよ」
「・・・・・・」

 静雄は耳まで赤くしながらホットケーキを食べている。
 言葉より態度のほうが雄弁なこともあるけれど。
 それでもやっぱり言葉で伝えたい。伝えてほしい。

「・・・・・・、だ」

 静雄が小さく呟いた言葉を、臨也は大事な宝物をもらったような気持ちで受け止める。
 それから、二人で穏やかな朝食をとった。
 こうやって、たまに穏やかで時々スリリングで、それからいつも幸せな日常が続けばいいな、と思いながら。




 人魚姫は、人魚に戻ることも最愛の人を殺すこともできなかった。
 臨也もやっぱり、言葉を捨てることもこの想いを殺すこともできなかった。

 だから今日も臨也は言葉を紡ぐ。
 言葉がなくてもわかりあえるかもしれないけれど、
 それでも『言葉』にして伝えたい気持ちがあるから。
 何千何万と繰り返し伝えたい。『好き』だって。
 言葉にすると薄っぺらくて嘘臭いかもしれないけれど。
 それでもいつかはその『言葉』が彼の中に満ちればいい。
 臨也はそう思うのだ。

 それが正しいかどうかなんてわからない。
 けれど、この気持ちだけは本当だから。
 何度でも繰り返す。好きだよ。
 海の泡みたいに不安定で曖昧だけど、たくさんの言葉を。
 言葉は消えてもこの想いは、泡のように消えてはしまわなかったから。

 人魚姫のように潔くは生きられないな。
 臨也は笑う。
 一度はあきらめるつもりだったけど。逃げようともしたけど。
 でも、やっぱり。

 好き、だから。

 この恋が泡沫と消えても、この想いだけはずっとこの胸の中に残る。
 だから今はこの泡沫の恋が壊れてしまわないように。

 何度でも繰り返す。好きだよ、と。
 大切なことだから伝わるまで何度も。
 傷つけないように細心の注意を払いながら。

 そしてそれがいつしか二人の『日常』になっていくまで。
 
 

 
 


作品名:泡沫の恋 後編 作家名:774