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花酔い

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姉さまが愛した方のお屋敷は広大で、清潔で、静かで、とても寂しい場所だった。
 使用人たちは兄さまに使えていて、よそ者の私には見向きもしない。なのにいつも誰かに見られている。冷えた視線が身体をなぶって手足は温まることがない。
 ふすまや廊下で区切られた部屋がどれほどあるのか知らない。気ままに屋敷の中を歩くことはできなかった。与えられた部屋で息をひそめて生きている。
 広い庭で春にはこぼれんばかりに白木蓮の花が咲く。乳白色の大ぶりの花は気品があって、とても美しかった。甘い香りが屋敷の中に届けば冷えた空気もわずかに和らぐ。
 皆が寝静まった夜中に一人眺める木蓮の花が好きだった。暗闇に慣れた目にはまるで夜を照らす灯りのように見えたから。


 
 
 宵闇が漂うころ、すうっと屋敷内の空気が引き締まる。兄さまのお帰りだ。
 ルキアはそっと部屋を出た。板の間の廊下は暗く、春だというのに冷え冷えとして薄寒い。日々の鍛錬で裸足でも平気だったがいつ何時でも足袋を履くことは朽木の作法とされていた。
 使用人たちは出迎えのために表玄関に集まっていた。
「お帰りなさいませ」
 ルキアは正座をして静かに頭を下げた。足を洗わせている白哉は怜悧な横顔を見せたままかすかに頷いた。
 言葉はない。いつから言葉をかわしていないのか、もうわからない。とうの昔に数えることはやめてしまった。
 白哉の冷たく整った顔に似合いの少し低い声は本人が無口なこともあって耳にする機会は少なく、ルキアの知る限り、決して甘い言葉をのせはしなかった。
「すぐにお食事のご用意をいたします」
 使用人頭が言うと使用人一人を残して、残りは炊事場へと去って行った。
 白哉の足を洗っているのは70年前から屋敷に勤めているという中年の女中だ。ふくよかな身体を持ち、気が優しく、唯一ルキアの存在を認識している女だった。
 当主の足を洗う役目はたいそう名誉なことで、若い女中たちの憧れだったが50年も前から洗っている女は変わらずだと言う。無駄なことを話さず、さっぱりとした手つきが白哉の気に入ったのだろう。ぽちゃりとした指が白く美しい足を洗う様は近寄りがたい当主に触れる唯一の機会を愛しんでいた。
 洗い終わると自分の膝にかけていた手ぬぐいの上に白哉の右足を置き、指の間まで丁寧に水気をふき取る。左足も同じことを繰り返すと、袖から出した黒い足袋を履かせ「お疲れ様でございました」と言って頭を下げた。
 白哉は音もなく立ち上がり、いつも通りルキアに視線をやることなく廊下の向こうへと去った。その後姿を見送り、ルキアが立ち上がるとき女中と目があった。
「お食事は桔梗の間でございます」
「はい」
 毎夜のごとく、ルキアが木蓮を眺める縁側に面した比較的狭い部屋だった。最近はこの部屋でばかり食事が用意される。
「兄さまは」
「ご一緒でございます」
 諦めてはいたものの胸の内で小さくため息をついた。白哉と二人で向かいあってとる食事が苦痛だった。言葉を交わすことはなく、白哉の姿を目にするとより一層自分の孤独を感じる。同じ部屋にいるのに兄は遠かった。
 唯一、庭に面した窓扉が開け放たれていることだけが慰めだった。甘い甘い木蓮の香りが満ちた部屋で、兄と妹の食事は十五分で終わる。
 ルキアはいつも大急ぎで食事をした。話さなくて良いのはこのことに関して言えば都合が良かった。白哉はルキアの食事が終わるまで席を立つことはない。それを知らなかった頃はただただ緊張し、空腹感さえ霧散して箸の進みも止まりがちだった。
 気づくのに遅れたのはうつむいていたからに他ならない。給仕を断っているのか、たった二人で食事をする部屋は沈黙が降り注ぎ頭も肩も下に垂れるのが常だった。
 ふと食器を膳に置く音がしないことに気づいて顔を上げると白哉がルキアを見ていた。冬の空気のように透明で静かな瞳だった。白哉は何も言わず、さりげなく視線をはずすと湯のみのお茶をすすった。
 翌日からルキアの箸運びに迷いはなくなった。嫌いなものも好きなものも平等に素早く飲み下し、必ず「ご馳走さまでした」と口にした。それを聞いてから白哉は立ち上がるからだった。
 今夜も二人の食事は無言のまま過ぎていた。白木蓮は夜風に吹かれ甘い匂いを撒き散らしている。ふと目をやった庭で幻想のように輝く花にルキアは見とれた。手には茶碗を持ったままだった。
「好きか、この花が」
 ふいに聞こえた声に驚いて、膝の上の手から箸が滑り落ちる。ころころと青い畳の上を転がった。慌てて箸を追いかけ手を伸ばすルキアに白哉が言葉を重ねた。
「お前の朱色の箸は私が選んだ」
 箸を掴んだ浮いた腰のまま白哉を見ると静かに見返された。音が聞こえなくなったかと思うほどただ静かだった。
 ルキアはそろそろと席に戻り、手の中の箸を見た。長さも細さもルキアの小さな手にしっくりと馴染むものだった。持ち手に小さな細工がほどこしてあり、光加減で虹色に光る。
「その小さな貝細工がお前に似合うだろう、と」
 白哉はすらりと立ち上がると縁側に出た。黒い着流しに辛子の帯が姿勢の良さを加えて後姿さえ男振りをあげている。
「今夜の月は朧月というやつか」
 白哉について縁側に出たルキアが夜空を見上げると、靄に覆われた月がぼんやりと春の空を照らしていた。
「花もよく見れば綺麗なものだな」
 腕組みをして庭を眺める白哉の顔はほのかな月明かりに照らされて、ますます美しかった。
 姉さまが亡くなって何度春を迎えたか。何度木蓮の花を目にしたか。
 その間に白哉が後添えを迎える気配はなかった。緋真を忘れていないだけなのだとわかっていても、思慕はゆるやかに降り積もる。
 緋真が亡くなり悲しみも落ち着くころ、ルキアはこの世でひとりぼっちだということをようやく悟った。朽木の屋敷は冷たく、白哉は姿さえ見せなかった。過剰ななぐさめは必要なかったが、必要としたわずかな支えも差し伸べられなかった。
 心細さの中で兄などもともと存在しないのだと思い込んだとき、白哉は突如ルキアの前に一人の男として現れた。一つ屋根の下で生活していることに驚くほど動揺した。
 白哉は美しい男だった。
 どのようなときでも背を真っ直ぐに伸ばして立っている姿を遠くから眺めるだけでルキアの心は魅せられた。ただ立つという行為だけで、身体の柔らかさ、筋力の調和、武道の心得が知れる。己だけではなく他人にも厳しいことはすぐに知れたが、敬遠するどころかますます惹かれた。整いすぎた容姿など内面のまばゆさに比べれば鈍い輝きだった。
 心の奥のざわめきは年々ひどくなる一方でとどまるところを知らない。
 年が明けるころにゆらゆらと動き出し、木蓮の香りが庭に漂うころには岸壁に打ち寄せる高波のごとくルキアの心を打ちのめした。兄などいないと思えど、形式上白哉は兄なのだった。
「花の名を知っているか」
「ハク、モク、レン」
「小さな子供のような話し方だな」
 白哉の前では小さな声しか出ない。せめて発音を良くと思えば、心の焦りが口調をぎこちなくさせる。
「私が恐ろしいか」
「いいえ」
作品名:花酔い 作家名:かける