花酔い
頭一つ背の高い白哉が静かに見下ろしていた。精神の力でもって、すべての感情を浄化した黒い瞳は清浄さ以外の何をも漂わせることはない。静寂だけをまとって存在している。
いいえ、とルキアがもう一度強く言ったのは見上げる先の濡れた瞳に吸い込まれそうになったからだった。
我に返れば、白哉との距離が近づいていた。どちらが近づいたのか。それとももともと寄り添うようにして話していたのか。
ゆらり、と瞳の奥が揺れるのが自分でもわかった。咄嗟に背けようとした顔は白哉の繊細な指先に捕らえられる。
「そのような目をするな」
命令口調は静かで、しかしわずかに困惑していた。
「申し訳ございません」
目を伏せてルキアは言った。主人に似るのか鍛えられた最強の斬魄刀さえ優美な形をしており、それを粛々と操る白哉もまた美しいことを顎にかかる白哉の指で思い返した。
沈黙が二人を支配していた。細い声が口からもれる。
「お放しくださいませ」
沈黙に息が止まりそうになったとき、目の前が翳り木蓮の香りが強くなる。
羽毛のような感触が唇をなでた。瞳を伏せていてもそれが何なのかわかり、唇が震える。
「花に酔った」という言葉とともに白哉の指は去った。
睫毛を震わせたまま、身動きもできずにいると「許せ」と一言白哉は口にして、足音もなく部屋を出て行った。とん、とふすまが閉められる音だけがルキアの耳に響く。
膳に残った夕餉を見ても、もう食欲はなかった。ルキアはきちんと正座をすると手を合わせ「ご馳走さまでした」とかすれた声で言った。
頬をつたう涙もそのままに誰もいない向かいの席を見つめた。白哉に謝られたことが哀しかった。触れ合った唇は一瞬でも、胸には永遠に残る口づけだった。今夜の木蓮の香りは特別甘く、特別魅惑的で、だからこそ特別切なく感じる。口づけを忘れられず、この想いもどこにも進めず、苦しむことは明らかだった。
木蓮が散れば今度は桜が咲く。庭に桜の木がないのは幸いだった。春の盛りに桜なんぞが庭で咲いたら死んでしまう。薄紅の花びらが吹雪のごとく舞う中で顎を引き、美しく立つ姿は容易に想像できた。
花の香りとともに胸のざわめきは散る。早く春が過ぎ去ればいいとルキアは昨年以上に強くそう思った。