野ばらの君
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都のお姫様はもう何年もお眠りになっていらっしゃるらしい。とうとう、母君である女王陛下がお隠れになるまでお目を覚まされることが無かったと…、こんなことはとても大きな声では言えないが、王家の方々は呪われているのでは――
巷間に流布しているという噂の類を報告され、髪も目も金色をした、はっとするほど目鼻立ちの整った子供が不機嫌そうに顔をしかめる。
「…勝手なことばっかり言うんだよな、他人て」
「殿下」
言外に言葉が悪いといさめるのは、その背後に立った男装の麗人。その装いは位の高い騎士のもので、それだけでも驚きに値するのだが、片側の肩に纏った法衣のようなそれは筆頭侍従の位を示すものであったから、その女性が如何に例外的な存在かは一目見ればすぐにわかるというものだった。
まだ若い、二十代半ばくらいの女性が颯爽と男装を纏っていて、しかもその位が男性としてもなかなか望むべくもない高いものであるなど、そうそうあることではなかった。現に、この国においても前例のないことだ。
しかし、その国ではその例外を必要とするある事情を抱えていたのだ。
それは、市井の子供のような口をたたいた子供にこそあった。
「…でも、…リザ」
およそ十歳をいくつか過ぎるくらいの子供は、縋るような目を、斜め後ろに立つ女性に向けた。子供が着く卓にはありとあらゆる書状や書類が所狭しと並べられており、たとえばその一枚には「西部地区の治水工事進捗報告」などという固い文字が躍っている。大体他の書類も似たり寄ったりのもので、所謂機密書類と呼ばれるものだった。
そんなものが子供の前に広げられているのには、勿論意味がある。
その子供には、それを閲覧する権利がある、ということだ。各府、各庁の長よりもなお高い地位に、その子供がいるということである。
「殿下のお気持ちもわかります。私とて、目の前でそんな口を利く輩がおりましたら、ただではすましますまい」
殿下、と呼ばれた子供は、きゅっと目を眇めて唇を引き結んだ。
「…ですが、殿下。どうぞ今しばらくのご辛抱を。…大丈夫です。王子は必ず目を覚まされますとも」
とうとう、子供は耐え切れぬように息を短く飲んで、振り返った場所にいた乳兄弟の腹に腕を回して抱きついた。そして肩を震わせる。侍従もまた、その小さな頭や薄い肩、背中をそっと慰撫して何も言わない。
――これこそが、秘密なのだった。
アメストリス王家の直系は、女王の薨去をもって、王子と王女を残すのみとなった。ただ、王女は数年前から原因不明の病を得て、眠り続けている。
…と、いうことになっている。しかし…。
本当は、眠り続けているのは王子であり、王女が王子のふりをしている、ということは王宮内でもほとんど知る者のいない秘密だった。
今までは病弱と理由をつけて人前には極力姿を現さなかった「王子」だが、母女王の喪があけたら正式に王位に進む以上、これからはそうもいかない。
現在「王子」――王女の味方は、筆頭侍従であるリザ、その祖父であり、国防大臣でもあるグラマン侯爵、やはりその親族である、宮廷事務次官のフュリー、侍女頭のグレイシア、武術指南役のイズミ…、それらのわずか数人に過ぎない。そう気安く明かせる秘密ではないし、信用の置ける人間は少ないからだった。
「王女」が眠っていることになっている、王城の最奥にある塔の上階の部屋は、唯一「王子」が「王女」にかえることが出来る場所だった。そこには本当の王子が眠っている。王女――エドの弟、アルフォンス王子が。
質はいいが簡素な作りの寝間着に身を包み、エドは昏々と眠り続ける弟の顔をじっとのぞきこんだ。大きなベッドは本当に大きく、まだ十を二つ越したばかりのエドと、その年子の弟が一緒に眠ってもまだ余るくらいには余裕があった。
ベッドの縁に腰掛けて、いささか行儀悪い格好で、王女は弟にその日一日あった事を言って聞かせる。返事が返ってきたことはないけれど、それでも、これは大事な日課だった。
けれどエドは、眠る弟に、悲しい話や頭にきたことなどは言わないことにしている。母が亡くなった時でさえ、詰るようなことは口にしなかった。答えが無くても。いつも最後に「ずっと待ってるから、早く目を覚まして」と優しく言って終わりにする。それは、こうなってからずっと、彼女が自分に課してきたことだった。
自分は姉なのだから、長子なのだから、後に生まれた弟を守る義務がある。まして弟は病に伏しているのだから。
アメストリスでは、王家の直系に男子がない場合のみ、女子への継承権が認められると定められていた。つまり男子がいれば女子に継承権は無い。彼等の母女王が立ったのも、女王の兄王子が早世したからで、例外的なことだったのだ。
貴族の中には女王を軽んじる者もおり、実際政治の大半は貴族高官により動かされているような状況だったから、この上さらに女王が続けば彼らの専横はますます目に憚るものになるだろう。傀儡として仕立て上げられるならまだしも、他の者を王家の傍流から担ぎ出すことも考えられた。
だからこそ、眠っているのは王女であり、起きているのが王子でなければならなかったのだ。
幸か不幸か王子と王女はよく似ており、また、王子が眠りについてしまったのが九歳の頃のことだ。まだ性別もさほどはっきりしない時分のことだったから、エドが王子の振りをするのはそんなに大変なことでもなかったのである。
だが当初こそそれでよかったが、それが一年となり二年となるうちに、段々それは困難を伴う戦略になりつつあるのは明らかだった。エドは今12歳。まだそこまで少年との境がはっきりしてきているわけではなかったが、いつまでもごまかし続けられるわけがない。最初から、いずれ手詰まりになるのがわかりきった作戦なのである。
「………」
もぐりこんだベッドの中、王子の振りを続ける王女は弟王子に身を寄せた。
この弟は母親の死も知らない。
起きたら母親が死んでいたなんて、そんなひどい話はないだろう。
エドは、ぎゅっと弟の腕を抱きしめた。母を求めて泣いてしまいそうだった。
即位まではまだ間があったが、「王子」の仕事はたくさんあった。
貴族たちの上奏を聞くのも勿論だが、それ以外にも片っ端から各部署から報告書の類を上げさせ、目を通した。
子供に何がわかると長達はせせら笑っていたが、エドは淡々と全てに目を通し、疑問があれば担当者を呼び出してでも説明させた。
王子といえど上下を乱す行いは困る、と内心では子供と侮っているのがありありと見て取れる態度の重臣達に釘を刺されたが、エドは一歩も引かなかった。元々頭のいい子供だったので、いっそ小憎たらしいほどの論客ぶりを発揮し、重臣達を悔しがらせたものだ。眠る弟のために最良の環境を作っておくのが自分の仕事だ、と王女は考えていた。
だが、とはいえ、エドもまだ12歳の子供である。いくら一歩も引かぬ態度を見せた所で、虚勢もなしにそう出来ていたとは言い難い。