野ばらの君
そこは勿論、背後に控えたリザ達の助力なくしては語れない。ある省庁の長官を務める貴族の男と口論になった時など、長官を追い返した後、彼女の手は震えていた。恐怖のためだっただろう。また、もっとあからさまに王宮内で刺客に狙われたこともあった。指南役のイズミに厳しく鍛えられているだけに、不覚を取るようなことは無かったが、リザが刺客を斬って捨てた後、倒れそうなくらい真っ青になって言葉もなくしていた。
そんな彼女を慰めるのは、彼女の秘密を知るごく少ない身内だけである。そして、未だ目覚めない弟と…。
毎日謁見の時間は午前中と定められていた。
だが、その男は、その決まりなど無視して、どころか手順の全てを無視してやってきた。
その時エドは、執務室と定めた王の間の続き部屋で、机の上に資料を積み上げていた。階自体が入口で封鎖されているので、ほとんど警戒を必要としない場所の一つである。ドアの外には秘密は知らないまでも、グラマン侯爵の息がかかった護衛がいる。筆頭侍従であり、名実共に腹心であるリザが今は少しだけ席を外していたが、エドは特に何も心配していなかった。階層の入口を封鎖する兵士にしても、指南役であるイズミに日々しごかれているのだ。イズミの厳しさはエドが誰より身をもって知っていた。
「…そろそろ三時、か」
ふと、エドは顔を上げ時計を確かめた。子供らしからぬ厳しい顔が、ふっと綻ぶ。
リザが席を外している理由、それは、一日のうちで唯一エドが楽しみにしているお茶の支度をしているからだった。毎日三時にとる休憩だけは、リザと二人で(増えたとしてもグレイシアかイズミくらいである)のんびり過ごすことにエドは決めていた。他は一分の隙なく動いているのだから休息は必要だ、と信頼する側近達に言われて始めたことだが、今ではエドの唯一の楽しみになっていた。そしてエドが楽しみにしているのを知っているリザやグレイシアがそれを軽んじるはずもなく、三時の少し前になるとリザは支度のために席を外すことがあったのだ。毎日ではなかったが。
けれど、それをまるで知っていたかのように、あるいはエド以外の人間が誰もその部屋からいなくなるのを見計らっていたかのように、大きな書棚が「横に動いた」のである。
「…っ!」
驚いたのはエドだ。まさかそんな重いものがひとりでに動くわけがない。だが、驚きはそれだけでは済まされなかった。そこから人がひとり、それも見知らぬ若い男が出てきたとあっては、年の割に落ち着いたエドでも息を飲まずにいられなかった。
男は、そんなところから出てきたというのにまったく落ち着き払った様子で、ぱんぱんと体についた埃を軽くはたいている。エドは、呆気に取られてそんな男を凝視した。声をかけるどころではなかった。
彼は簡単に埃を払うと、泰然とした様子で、大きな机に書類を広げている子供の前まで大股に歩み寄り、…机を回り込むと、エドの前ですっと膝を折った。臣下の礼を取りつつ、彼は、ひたとエドを見上げる。
黒い髪に深い黒い瞳。顔立ちは精悍に整った若い男だった。だがもしかしたら、見た目よりは年がいっているのかもしれないと思わせる部分もあった。妙に落ち着いていたからだ。
「…よかった」
名も名乗らぬままそう呟いた後、彼は、唖然としている子供にふっと相好を崩して笑いかけた。それはとても親しみのこもった笑みで、さらに言うのなら、その、顔立ちの整った男がそうやって笑うと、一気に華やぎがまして見えた。
端的に言えば、美男子だ、ということだ。
ついでに言えば、声も深みがあって良い声だった。
「………だれ…」
見たことのない男に眼を奪われつつも、小さな声になってしまったけれども、エドは座ったまま誰何の声を上げる。
すると男は驚いたように瞬きしてから、目を細めて小さく苦笑した。
「おまえはまだ小さかったから私のことは憶えていないかな。だが、私は憶えているよ。大きくなったね」
見上げながらも、その口調は敬うものではなかった。だが、エドはそれを不快に思うことは無かった。普段なら頭に来るはずの「小さい」という形容詞にも反応できないほどに。
その顔に、いつかの面影がだぶるような気がして、じっと男の顔を見つめる。知っているような気もするが、はっきりとは思い出せない。そもそも、この男が知っているのは「王子」なのか「王女」なのか…。
「憶えていないなら、その方がいいのかもしれないな。でも、おまえが泣いていなくて安心した。…また後で会いに来るよ」
「え……」
男はそっとエドの小さな手を取ると、ちゅ、とその甲に口づけを贈った。手馴れたようにも見えたが、優雅な仕種でもあった。それは、この男が間違いなく洗練された手管をもつということ、その世界に属しているということを示していた。もしくは、その才能がずば抜けてある、ということを示唆していた。
「――私の小さな野ばら。元気な顔が見られてよかった」
いっそ気障な様子で囁くと、男は入ってきたのとは違う、回廊に続くドアへ向かい消えていった。
やがて外が騒然とする。当たり前だった。警戒され、誰一人入れるはずの無かった部屋から見知らぬ男が出てきたのだから。
だが、一瞬のざわめきの後は外は静まり返ってしまい、エドはわけもわからずドアを見つめた。
“私の小さな野ばら”
その言葉に目を見開いたまま。
お茶を告げるはずだったリザの訪れは、来訪者の報を知らせるためのものになった。その顔は沈着冷静な彼女にしては珍しく強張っており、それが彼女にとって予想外もいいところだったのだと、聞くまでもなくわかった。
「…マスタング卿?」
苦々しいとさえ言いたくなるような顔で、彼女は幼い主の声に頷いた。
「辺境を抑える諸侯のひとりです。殿下のおじいさまの代に後継がなく断絶した家名ですが、前女王陛下の御代に現在のマスタング卿により復興されました」
「はあ…」
エドはきょとんとした顔で返した。
「…前女王陛下が、御自ら、卿にマスタングの家名を下賜されたのです。異例のことでしたから、重臣の中には彼をよく思わぬ者も多くおります」
「ふぅん……。で、何でその人、来たの」
エドは忌憚なく、疑問とするところを尋ねてみた。
それに、リザの顔がさらに複雑なものになった。
「辺境の制圧に時間がかかり、女王陛下のお見舞いのはずが間に合わなかった、と。卿ご自身はそのように」
「……………」
母女王、トリシャが身罷ったのは数日前のことだった。エドは、ぎゅ、と膝を握り締める。
「…明日の謁見の時間に、とお伝えいたします。よろしいですか」
「え?」
「前の陛下に家名を下賜されたとはいえ、勝手が赦されるものではありませんから」
どうやらリザが怒っているのは、事前の通達もなく、謁見の申し出などはさらになく、定められた時間を無視して訪ねてきたことにこそあるようだ。
しかし、エドは首を振った。
今、件の諸侯は別室に控えているという。
「いいよ。会う」
「殿下!」
「…母さんのお見舞いに、来てくれるつもりだったんだろ」
ひっそりと笑う子供の顔に、リザは言葉を失った。
「…その人が母さんのことを知ってるなら…話してみたいな。…おれ」