野ばらの君
アルフォンスが眠り始めてから、義務ばかりだった。責任感でいっぱいで、望みなんて特に意識したことはなかった。立派な王子として振る舞い、アルフォンスが目覚めた時彼にとって居心地の良い場所を作ること。それが義務であると同時にただひとつの望みでもあり続けたので、望むように幸せにと言われても想像がつかなかった。
困惑するエドに、ゆっくりとロイが声をかけた。
「…では、『眠り姫』。こうしようじゃないか」
悪戯っぽく目を細め、彼は風説に従った呼び名でエドに呼びかけた。
「私のところへおいで」
「…え?」
「マスタング卿!」
「何言ってるんですか!」
申し合わせたかのように、リザとアルフォンスの反撃は綺麗な文章を作っていた。それが面白くて、ロイはくつくつと喉奥で笑う。この二人がロイを危険視(と言ってよいだろう)ことはわかっていた。それも、貴族達が抱くような危惧ではなく、もっと局地的な危惧。すなわち対エドにのみの危機感だ。
肝心のエド本人は、毛ほどの危機感も抱いてはいなかったが。
そんな無心なエドに、ロイは急かすことなく続ける。
「君には時間が必要だ。もっとたくさんのことを自由に見て、触れて、感じて、考えて…。イーストシティなら都から遠い。君のことは遠縁の貴族の娘とでもしておけば誰も何も思わないさ」
だから、おいで。ロイはやさしく目を細めて、そう言ってくれていた。
エドは、その言葉のさすものを考える。見たことのない新しい街、ロイが作った街のことを。そして、思い出す。彼が都を訪れ、エドに言ってくれたことを。
「…野ばら、…見せてくれる?」
イーストシティにも野ばらの見事な垣があると彼は言っていた。城からは消えてしまった思い出の野ばら。それとは確かに違うものだけれど、彼が昔城で見たものを懐かしんで言ってくれたのなら、一度見てみたかった。
――外の世界を、エドは見てみたかった。
「幸いというべきか、姫は眠ったままだということになっている。誰も、眠り姫が歩いてどこかへ遊びにいったなんて思わないだろう?」
ロイは楽しげに肩を揺らした。
エドは――
「…いきたい」
ぽつりと、呟いていた。
…王宮の外の世界を見たい、それもあった。だけれどそれだけではなかったかもしれない。そう、誘ってくれたのが、ロイでなかったら、きっとそんな風には思わなかった。
エドのことを、たったひとり、野ばら、そう呼んでくれる人だから。
ロイは微笑んで、エドの手をとり、その甲に恭しく口付けた。御伽噺の騎士のような仕種だとエドは思った。
「――御身は我が身命に賭けてお守りいたします」
捧げてくれた言葉まで、そっくりに。
…アルフォンスの「眠り病」は学者であった亡父の研究から見つけたものだった。彼らの亡父は、俗に「錬金術師」と呼ばれていた高名な学者で、二人の子供達は遺憾なくその才能を引き継いでいたのである。エドが聡明なのも道理であった。
「マスタング卿、あのように向学心豊かな姫をどこからお連れになったのです?」
城下に逗留していた学者を招き、エドと引き合わせてみたところ、老齢の著名な学者はしわだらけの顔をさらにしわくちゃにしてそう興奮気味にロイに問うた。下手をしたら我こそが教育係にとでも言い出しそうな雰囲気に、ロイは笑ったものだ。
「なに、高い塔からね」
「…?いずこかにとらわれておいでになられたのか、あの小さな姫君は?」
違う違う、とロイは手を振り曖昧に笑った。
「…教授よ、あまりあれのことは詮索してくれるな」
困ったように頼み込めば、いずれ事情があるのだろうと老学者は結局心得たように頷いた。
「…野ばら」
王宮からついてきたたったひとり、元侍女頭のグレイシアと押し花作りに夢中になっていたエドは、ドアに寄りかかって室内に呼びかけたロイを振り向き、満面の笑みを浮かべると「姫君」らしからぬ勢いでかけてきて思い切り飛びついた。ロイは危なげなくそれを抱きとめながら、あまり走ってはいけないよ、と大して本気でもない諫言を呈す。
グレイシアはといえば、微笑ましげにそんな二人を見つめる。
アーチャーが塔に忍び込んだ時、それに最初に気づき、果敢にも人を呼びに走ったのは彼女だった。彼女はアーチャーに殴られても必死で逃れ、そうして逃げ切ったところでヒューズとかち合い、それでホークアイ達もアーチャーの狼藉を知るところとなったのだった。つまり、彼女が最大の功労者だった。…加えて言うならば彼女に骨の髄まで惚れきっていたヒューズはそのためにアーチャーの取調べに超がつくほど熱心になったので、そういう意味でも彼女はやはり功労者であるといえる。
…余談ではあるが、そんな彼女だけがエドについてイーストへやってきたのは、最大限王女と知れることのないようにという配慮と、…ヒューズの熱意が実って彼女がミセス・ヒューズになったためであった。
「ロイ!ちょうど見て欲しいのあったんだ!」
王子の振りをしていたからというよりは、元からの性格の問題なのだろう。普段のエドの口調は少年そのもののようだった。だが輝かんばかりの嬉しそうな顔の可愛らしさにはロイも勝てない。
(…三年、か)
城からエドを連れ出す時に、ロイは、アルフォンスとホークアイにそう約束した。
とりあえず、三年経ったらエドを城へ返すと。
今ロイの腕に抱きついて引っ張っているエドはまだまだ幼さにあふれているが、もとより秀でた容姿の子供だ。三年もしたら、匂うような美しい娘に成長していることだろう。
――果たして三年経った時に本当に城へ帰せるものだか…
王女以外の人間は皆それはないだろうな、と内心(一部は絶望すら感じながら)考えていたが、当の姫君はそんなことなどどこ吹く風で毎日はつらつと楽しげに過ごしている。さすがに王女であるということは明かせないまでも、身分ある家の姫君ということは知られているのだが、それでも時には城下へ下りて(無論供がつくが)元気にはしゃいでいる姿は年相応の子供のそれだ。今では城下でも「野ばらの姫」と親しまれているとロイは小耳に挟んでいた。イーストシティの民は素朴で懐が広い。この元気の良すぎる姫にも、きっと居心地はいいだろう。
「ロイ?」
内心苦笑してしまったロイに、怪訝そうな顔をエドが見せた。明晰なところを見せたかと思えば、こんなあどけなさを見せる姫がロイは可愛くてしょうがない。あの陰謀うずまく王宮でよくもここまで素直に育ったものだと感嘆した。この姫は、小さな頃の無邪気さや愛らしさをちっとも損なわないまま、こうして健やかに成長したのだ。ロイは何かにそれを感謝したいくらいだった。
そして、願わくば、
(…我が身と共に、久しくこの光がありますように)
「…なんでもないよ。何を見せてくれるんだい?」
笑えば、嬉しそうに笑い返してくれることに救われるような思いがし、そして傍らに永く在ることを密かに、けれど強く願ったのだった。
――その三年後、結局王女が都へ帰ったのかどうかは、イーストシティに永く伝わる「野ばらの姫」の様々なエピソードが教えてくれる。黒髪の領主の妻として惜しみない愛を与え、また同時に民からも深く愛された姫の物語が。