野ばらの君
おっとりとした女性は穏やかに笑って、そんなことは気にしなくていいのよ、といってくれた。貴方には貴方の生き方があるのよ、と。しかし、他にもう何も考え付かないのだと強く訴えたら、それなら、と家名を禄をくれたのだ。本当ならこれは貴方のお父様がするはずだったことだけれど、と。
周辺との小競り合いや現地の人々との騒乱が耐えない東部の辺境の領地を望んだのはロイである。せめて辺境を平定して、彼女に報いようと思ったのだ。
それからおよそ十年近くが経ち、東部は、見違えるような豊かで平和な場所になった。時折周辺国から突発的な攻撃を受けることもあるが、それも今では必死にしのがなければいけないようなものではない。辺境とはいえ、流通が盛んで、人も物もどんどん増えてきている。
今ではロイの領地は東部から南部にかけて拡大しており、すべての荒れた辺境を彼は併呑していくのではないかと中央では囁かれている。つまり、マスタングには野心がある、と。しかしこれは本人やその周囲の人々から見たら的外れもいい所の中傷だった。
ロイははじめから、誓った以上を望む気などさらさらなかったのだから。
東部の中心、新しく作られた都市であるイーストシティには、城郭近くの一画に、手付かずに近い野原と森がある。公園として災害時の避難場所に当てられてもいるが、訪れた人はその自然の美しさにたいてい目を瞠るので有名だ。
そこには素朴な野ばらの垣根があって、…知る人は知っている。それが、その地にやってきて、新たな都市を作った人物がわざわざ残させたものであることを。それはつまりロイであり、彼が野ばらの垣根を残させたのには勿論大きな理由があった。市民はその地の自然を破壊することではなく、調和させて残した青年領主をそういう意味で評価していたが、ロイの本心はそんな大したものではなかった。
どうも自分の名前が気に入らなくてたまらなかったらしいロイの小さなお姫様は、素朴なその花を好んで、自分の名として告げたことがあったのだ。
「貴女のお名前は?」
相手はまだ小さな小さな女の子だったが、ロイが丁寧にそう問うたことをとても喜んで、短く答えたのだ。野ばら、と。ローズではなくブライアーとは、と意外に思ったが、そこには子供なりのというか幼女なりのこだわりがあったらしい。
それからロイにとって、「野ばら」とはその小さな女の子であり続けた。唯一剣を捧げて守るべき相手のことであり続けたのだ。
だから彼はその原野をつぶしたりは出来なかった。たったそれだけのために。
その彼が守る相手を間違えたりするはずがないのだが、それは中央の連中には当然わからないことなのである。