野ばらの君
「なるほど、不名誉な噂をご存知のようで残念だ」
「不名誉な噂って?」
ひとり意味がわからず首を傾げる幼い「王子」に、ロイはにこりと笑い、リザはますます苦々しい顔をした。
「千人切りとか――」
「卿!」
聞かせてなるものか、とばかり目を吊り上げて主の耳を庇う侍従に、ロイは肩を震わせて笑った。
「世人の想像はたくましくて私が驚いてしまう。せいぜい数十人というところだろうに」
「……………」
エドの環境がもしもここまで複雑でなかったら、王家の人間としてそろそろそういう教育が始まっていてもおかしくなかったのだが、…いろいろな事情があるせいでそうはならずにいた。なので、何が不名誉なのかがさっぱりわからない。
尤も、それは正確に言うと不名誉な称号というわけでもないのだ。
「…よくわからないんだけど、どうしてそれが不名誉なんだ?それだけ強いってことだろう?」
いっそあどけないくらいの様子で素直にそう言ったエドにロイは目を丸くし、リザもぎょっとした。しかし、それに続いたあどけないくらいの賞賛に、二人とも呆気に取られてしまう。
「戦でそんなに…その、敵を斬ったということだろう?マスタング卿はまれに見る勇者なんだな…、…?違うのか?」
まじまじと自分を見つめている黒い瞳に居心地の悪いものを感じたエドは側近を振り返ったが、リザのハシバミ色の目にも苦渋の表情。
「……何か間違ってたか?」
エドもとうとう、困ったようにそう尋ねるしかなかった。
王城の庭を一見何気ない様子で歩きながら、マスタング卿は思案を巡らせていた。
「……」
時折立ち止まっては顎をつまんだり腕を組んだりして考え込む。そんなことを繰り返している。すれ違う侍女達が黄色い声を上げれば笑顔で手を振るサービスつきだが、時と場合によってはさりげなく城内の様子を聞き込んだりもしていた。間諜顔負けの手馴れた仕事ぶりだった。
「……なかなかだが、…まだ甘い」
ふっと一人になった時、男は難しい顔で判定を下した。
ホークアイの有能さは折り紙つきだが、しかし致命的なことに、彼女は実戦と何よりも敵の大きさを真に理解しているとは言いがたかった。実戦と遠いのは仕方のないことだが、ブラッドレイの力は近くにいる分よほど理解していると思っていたのだが…。ただ、彼女の背後に控えるグラマン侯爵は老練の将だから、そこに救いを見出すしかないだろう。
後は、ロイは会ったことはないが、王家指南役を務める、御前試合でアメストリス史上唯一優勝を極めた女性イズミ。この女性の強さは音に聞こえたものだから、そんな人物があの殿下の最も近いところにいるのは心強いことだった。
「………」
と、考え込んでいた男が不意に顔を上げる。見知った気配を感じたからだった。
「やっぱ気づかれちまった」
陽気に笑い、近づいてきたのはロイとそう年のかわらなそうな男だった。官吏の装束だが、体つきはどちらかといえば衛兵に近いものだった。しかしいずれにせよ、王城にて働く臣であり、貴族の風情ではなかった。卿と呼ばれる男に気安い口を利ける身分であるようには少なくとも見えない。
しかし、ロイは笑みを浮かべ、男が近づいてくるのを待った。
「久しいな。ヒューズ」
「ああ、ひっさしぶりだな。俺がこっちに転籍になってからだから、…かれこれ半年ってところかね。そっちは元気にやってるかい?大将」
「まあ、そうだな。特にかわりはない」
ロイは肩をすくめて、まるで気さくな態度で笑った。
「おまえこそどうだ。慣れたか」
「うーん、まあ、そこそこ?」
ヒューズと呼ばれた男もまた肩をすくめた。が、その後、彼は自然な様子でロイに身を寄せ、声のトーンを落としてこう言った。
「…おまえの大事な野ばらちゃんだが、…危ねぇな、ありゃ」
「…危ないか」
「ああ。怖いもん知らずでな、こっちがひやひやしちまう」
ロイはただ苦笑した。
「頭はいい。相当いいな。身代わり程度じゃもったいないくらいだ」
「…あの子は昔から負けず嫌いだったよ」
「腕っ節もなかなかだって聞いてる。だがまあ根性があるんだろうな、イズミ師匠の鬼のしごきに耐えるんだから。知ってるか、指南役が怖くて除隊した奴だっているんだぞ?貴族のぼんぼん連中なんかより遥かに芯が強いね、あれは」
「おまえにしてはよくほめるじゃないか?」
「うちの大将ほどじゃねえさ。…だがな、はっきりいって、出来すぎる。あんな子供がだ。当然あのおっさんは面白くねえだろ。口には出さねぇけどな。むしろ、おっさんは淡々としてるんだが、おっさんの出来の悪い甥っ子がなあ…」
「……ああ…」
苦笑したロイに、それ以上はヒューズも言わない。その先は誰でも知っているようなことだったからだ。ブラッドレイ公爵の甥、アーチャー子爵。彼は実際にはものすごく出来が悪いわけではないのだが、どちらかといえば小粒で、過去勇んで前線に出てきて大敗を喫したことがあった。そのせいで、軍務につく者の中で彼の評判はすこぶる悪いのだった。
「この前呼び出されて、書類のミス指摘されてな。もうキーキーうるさいのなんのって」
まだ十を超えたばかりの子供にそんなことを面と向かって指摘されて面白い人間がいるとは思えない。まして、権勢欲の強い人間が。ロイはやはり苦笑した。
「…ところでよ、大将」
なんだ、とロイは目で答える。ヒューズは真剣な顔になり、重々しく告げた。
「…俺はな。この都で運命的な出会いをしたんだ」
「…は?」
「誰だと思う。なんと…」
「…あの子はだめだぞ」
「馬鹿。あんたと一緒にすんな。違うよ、…野ばらちゃんのおそば仕え、侍女頭のグレイシアさんだ…!」
「…………………」
かつて右腕と恃んだ、部下であると同時に無二の親友だとも思っている男に、ロイは絶句することしか出来ない。どういう展開だ、それは。
「…だからだな、大将」
「…なんだ?」
「俺と彼女の明るい未来のためにも、野ばらちゃんをちゃんと守ってやってくれよな!」
「………。俺はおまえのそういうところが嫌いじゃないよ、ヒューズ」
やれやれと肩を落として、ロイは力なく呟いた。
母は物心ついたときには既になく、父が亡くなってからの二年ほど、荒んだ暮らしをしていた自分を救い上げてくれたのは優しい女性だった。最初はその上品な香りに拒否反応を起こしそうだったが、…最後には、こんな人が母だったならと、母親に抱かれた記憶さえないロイは思うようになっていた。
その優しい女性には、一風変わってはいたが芯は優しい夫と、まだ三歳と二歳の小さな子供たちがいた。三歳の上の女の子は活発で、よく抜け出しては母親である女性に心配をかけていて、養われていた自分の一番の役目は、小さなお姫様の脱走を阻止することと、脱走された時には見つけてくることだった。だんだん相手も知恵がついて隠れるのがうまくなっていったけれど、見つけた時の、「見つかっちゃった」というかわいらしい顔に負けてしまうのが常だった。
十分な教育を受けさせてくれて、衣食住も安堵してくれた女性に、ロイは誓った。いつか必ず、彼女の助けになる、彼女の子供達の助けになると。