野ばらの君
ほんの少し寂しげに言うエドに、ロイはわずかに目を細め、金髪をぽんぽん、と撫でてくれた。「お赦しを」と口にしながら。そうやって甘やかしてくれることを、エドこそ許しを乞うべきではないかと一瞬思いもしたが、そこは彼のやさしさに甘えることにして。
「裏庭にさ。野ばらが咲いてたんだ」
「……ええ。大きな野ばらの垣根がありましたね」
ロイは目を細めてそう答えた。思わず、エドは後ろを振り向いてしまう。驚きに目を見開いて。
そうしていると、やはりまだ12の子供なのだとわかる幼さがはっきりと浮かんでいて、微笑ましいような哀れなような気持ちになる。
「…やっぱり。知ってるのか…?」
「ええ。殿下は野ばらがお気に入りでしたから」
「…………」
笑う男の顔は、もしも信じていいのなら、とても慈しみに満ちたものだった。
「今もまだあるのですか?」
まじまじと見つめてくる大きな金色の瞳に目を細め、ロイはゆっくり尋ねた。すると、エドは寂しそうに唇をきゅっと噛んで、黙って首を振った。
「…そうですか。あれはあれで風情があったのに」
「…五年前くらいに。…酔っ払った男が、裏庭歩いててさ、野ばらに足取られて動けなくなって。朝になったら凍死してたんだ」
「…それは、また…」
枢機卿の唇が皮肉っぽく歪んだ。言葉にしなかった部分を表すのであれば、なんとも間抜けな、とでもいったところだろう。
「縁起も悪いし、って。切られちゃったんだ」
肩を竦めて、殊更なんでもないようにエドは言う。だが、その目にちらつく寂しさは隠しようもなかった。ロイは笑って、「王子」を覗き込む。
「…な、なに…?」
甘い顔立ちとはいえないが、男の顔は確かに女官達が騒ぐのも頷けるような整ったものだった。それが至近距離で見つめていれば、いくら子供のエドでも驚くし、軽く頬くらい染めはする。
「イーストシティに、野ばらをそのまま残してある場所があります」
「…え?」
ここでロイはにこやかに笑った。
「いつか、おいでください。…城の野ばらは残念でしたが。…でも、殿下の思い出がきえたわけではありませんよ」
「…思い出…?」
きょとんとして繰り返した子供に、一癖もニ癖もあるはずの男は鷹揚に笑った。
彼は知っていたのだ。
幼い王女の両親は共に忙しく、彼等が家族でどこかに出かけたことなど、公務ですらなかった。それではあまりにかわいそうだ、と遅くに出来た子供をいたく可愛がっていた父親が、小さな娘を抱いてせめてもと城の庭を連れて歩いたことがあるのを。その時に野ばらがちょうど花をつけていたのを見て、見慣れないその素朴な花が可愛くて気に入ったのだろう、彼女は身の回りの親しい大人たちには「野ばら」と好んで名乗るようになったのだと聞かされた。自分の男名が気に入らなかったのもあるだろうが、父親とのささやかな思い出が嬉しかったのに違いない。
今はどうあってもその名を名乗れない子供を、ロイは困ったように見つめる。
「殿下の心の中の野ばらは、いつまでも枯れたりはしない、ということです」
自分には力がある。少なくとも、この子の助けになれるだけの力はあるはずだ。
だが、何をするのがこの子にとって一番の助けになるのかは、こうして接してみると曖昧だった。素直に考えるのなら、この子の戴冠と治世を援けることなのだが…。
「…まあ、…うん」
エドはぽかんとした顔をしたあと、照れくさそうにはにかんでいた。その顔からは寂しそうな色は消えていて、ロイはひとまずは安堵の笑みを浮かべた。
ロイを連れてのエドの散歩は、そんなに長い時間でもなければ頻繁でもなかったのだが、それでも普段は子供らしくもないしかめっ面の目立つエドが、時には声を出して笑うのだから、目を引かないわけがなかった。文武に秀で、ただ黙々と版図を広げつづける、恐らくは当代きっての猛将が穏和な笑みを浮かべる横で、飛び跳ねるように元気よく、楽しげにしている「王子」は誰の目にも好ましく、愛らしく映った。
また、歩いている間、ロイが気さくに使用人にまで声をかけるので、一緒にいるエドもまた短くではあるが声をかける。そうすると「王子」に労われたというので彼等は恐縮し、大いに感激していた。そして感激されることなどない(普段は貴族と戦っている)エドだから、逆に照れてはにかんだりする。その顔がまたあどけなくて可愛いのだと、人気も上がるし同情も寄せられる。あんなにお小さいのに健気な殿下、と。
その声は下働きから出入りの商人達に伝わり、そうして城下に伝わる。いつしか城下では、「王家の方々は呪われているのでは…」を打ち消すほどの「殿下人気」が盛り上がっていた。口から口へ伝わる過程で色々な尾ひれ背びれがつくのは噂話の常だが、殿下人気も例に漏れず、いまやエドは悲劇の殿下で、この「健気な殿下」に辛く当たる貴族は人でなしだ、ということになっている。
…「散歩」はけして狙ってのことではなかったが、戴冠式を目前に、エドの人気を上げるのには随分と役立った、といえるかもしれない。
いまや殿下人気は凄まじい、と数日の宿下がりから戻った侍女頭のグレイシアに聞かされ、エドは困ったような照れくさいような、複雑な顔をした。
「…そ、…そうなんだ…」
「ええ。もしも殿下が街にお越しになったらきっと大変でしょうね。皆大歓迎ですよ。旗を振って」
にっこり笑ってグレイシア。
「私が殿下付きなのは勿論秘密にしているのですが…」
「…グレイシア?」
「王宮で働いていることは家族も知っていますからね。どうにかしてこれを殿下に渡して欲しい、って…」
「……え?」
そういえば挨拶をしに来た時から、彼女はなにやら大きな箱を抱えていた。なんだろうと思ってはいたのだが…。
リザに目で問えば頷いてくれたので、エドは恐る恐る箱を受け取る。グレイシアが両手で抱えるくらいの箱だったから、子供でさらに小柄なエドが持つと相当大きい。
生まれからして贈り物自体には縁が多いが、心のこもった贈り物には縁が少ない。
しかし、その何の変哲もない白い箱の蓋を開けると、そこには――
「………!」
城下ではきっとそんなものがたくさんあるのだろう。そこには、色とりどりの飴細工に、キャラメル、タフィー、ジェリービーンズ、アイシングされたクッキーといった菓子がぎっしりと詰め込まれていた。それから、指人形や毛糸編みの手袋、それから木彫りの人形といった玩具や装身具の類。
大きな目をさらに見開いて、エドは食い入るように箱の中身を見つめていた。
「『どうか殿下に』、って。近所の子供たちからのも入ってるんですよ」
「…オレ、に?」
グレイシアはにっこり笑って頷き、不安げに振り返った先のリザもまた、困った風ではあったが頷いた。普段、彼女の許可なく食べ物を口にはできないのだが…。
「………うれしい」
噛み締めるようにエドは言った。そして泣き笑いのような顔で目を細めると、もう一度グレイシアに向かって「嬉しい」と口にした。
「ありがとうって、伝えてくれる?」
「皆喜びますわ。ありがたき幸せ」
侍女頭は礼儀正しく淑女の礼。エドはといえば、目をこすりながら首を傾げて問う。
「食べてもいい?」