野ばらの君
「ええ、勿論。ああ、ではお茶をお持ちしましょうね」
うん、と頷いたエドの顔は、年相応よりなおあどけないものだった。
王子と王女の部屋は、王宮の最も奥まった場所、塔の最上階である。
塔に続く回廊は近衛兵によって守られている。そして最も内側、塔の入り口を守るのは、イズミ指南役によって選抜された精鋭だ。さらに塔の内部にはグラマン侯爵、その孫娘であり王子の側近でもあるホークアイ卿によって選ばれた護衛が配されている。王子と王女の身の安全は保障されている――はずだった。
だが…。
深夜、エドは不意に胸騒ぎを感じて目を覚ました。傍らに眠る弟に変化がないのを見て、安心したような落胆したような複雑な気持ちを覚えたが、すぐに身を起こし、上着に手を伸ばした。
近くに誰かの気配を感じた。それも、リザやイズミ、グレイシアとは違うものだ。
「……」
足音を立てず、気配を殺してエドは寝台を降りる。護身術ならイズミに徹底的に叩き込まれていたから、普通の賊に遅れをとることはない。それに寝室の外には信頼の置ける護衛が立っているはず。何も心配することはない。
ない、はずなのに…。
エドはつばを飲んで一歩を踏み出した。ガウンの紐を結ぶ手は微かに震えていた。
「………」
さっと身軽にドアの脇に身を滑らせた。外の気配をうかがおうとしたのだ。だが――
「…っ!」
大きな音と衝撃とともに、ドアを突き破ったのは大きな槍だった。あまりの唐突さに瞬間、腰が抜けそうになったが、それでもエドはすぐに壁から身を離して床を転がり物陰に滑り込む。幸いにして今夜は月が出ていない。部屋の中は暗かった。
だが明かりがないのは賊にとっても同じ条件だった。
「どちらにおわすか、殿下?」
槍撃で壊れたドアは蹴破られ、そこからは異様に屈強な男を従えた男が入ってきた。青年というには老けているが、年寄りではない。どころかエドにとっては知らぬ者でもなかった。但し好意を持っているかというなら答えは否だったが。
エドはドアの影、護衛が崩れ落ちているのを見、唇を噛んだ。彼らがどうやってここまで入り込んだのかはわからないが、イズミ達が後れを取るとも思えないから、いずれ隙を付いてのことなのだろう。
大丈夫、とエドは胸の前で拳を握った。すぅ、と息を吸って、吐いて、今にも寝台に手をかけようとしている男の背後に間合いを取って滑り出た。
大丈夫。少しの間持ちこたえれば、きっとイズミが、リザが来てくれる。彼女達が自分の信頼を裏切るわけがない。
「――痴れ者が、ここを誰の寝所と心得る!」
虚勢を張るのは得意だ。エドはせいぜいふてぶてしい態度をとって、傲岸にそう告げた。
「かような狼藉に及んで、まさか無事ですむとは思っていないだろうな」
居丈高に聞かせれば、男が余裕の仕種で振り向き、そして馬鹿にしたように鼻で笑った。不快な仕種だった。
「はは、貴方こそ我らをたばかったこと、まさかただで済むとはお思いになりますまいな?王女殿下!」
ブラッドレイ公家に連なる貴族の一人、アーチャー子爵。エドにやりこめられ、当代公爵にも見放されそうだと宮廷で噂される人物は、エドがひた隠しにしてきた事実を突きつけ哄笑をあげた。エドの背中を冷や汗が落ちる。ばれるようなことはしていない、はずだ。身近な者でもそれを知っている者はほとんどいないはずで…。
「…何を言っている?貴様」
しかしエドは内心の動揺を綺麗に押し隠して、いかにも馬鹿にしている様子で跳ね返した。
「子供にやり込められて、仕返しにこの暴挙か?まったく、救いがないな」
ふん、と鼻で笑いながらもエドの胸中は穏やかではなかった。
「何とでも言うがいい。今眠り姫の正体を確かめれば済むことだ」
アーチャーは唇をまがまがしく歪めて、エドに背を向けアルフォンスが眠る寝台に手を伸ばす。
「やめろ!」
その瞬間、エドの頭からは隠さなければいけない入れ替わりの事情などは消えていた。眠り続ける弟を守らなければいけない、その一点にのみ意識が集中していた。今刃を付きたてられたら、弟は意識もないままに殺される。白い顔はいまや青白い。
「おまえ、何を考えている!深夜に王子の寝所に立ち入り、この所行…っ」
「本当に眠っているのが王女なのかどうか」
アーチャーはくつくつと喉奥を震わせながら遮った。ドアを槍で破壊した屈強な男は何も言わなければ眉のひとつも動かさない。だがその風貌は恐ろしく残忍で、エドは震えそうだった。
「本当は、王子が眠っているのではないですか?ねえ、エド姫?今ならまだ赦して差し上げましょう、我らを…ブラッドレイ公家をたばかったことも」
楽しくてならないという様子で男は言う。
「臣下の分際で、よくも…!」
「その臣下の助けなくば既に王家は立ち行かない。それは賢いあなたならご存知でしょうに」
細めたアーチャーの目に針のような光が灯る。
「そう…あなたは本当に賢い。賢しいといってもいい。無力に振舞えば、まだしも可愛げがあったものを…ね」
いつも身に付けて寝ている護身用のナイフを抜き取るタイミングを計りながら、エドは暴挙に及んだ臣下を睨みつけた。彼がどこからこの情報を得て、どうしてこれだけの確信を持っているかなど、もうそんなことはどうでもよくなっていた。
「そこから離れろ、アーチャー」
「王の子といえど、王女が王子の振りをするのは、いただけませんね」
「……っ」
「なに。素直に従ってくださるなら、私とて鬼ではない。あなたを庇護してさしあげますとも。――考えてみればあなたは、両親に先立たれた哀れな子供だ」
エドはぎりっと歯をかみ締めた。こんな男に哀れまれるなど、腹立たしいだけだった。
「何を恐れますか?今ここに寝ているのが王女であれば、あなたは確かに私を断罪するだけでいい。だが違うから怯えているのでしょう、殿下」
「黙れ!王子を愚弄するなど…無礼者が…っ!」
「可哀想な王女殿下。これからは私が夫となり守って差し上げますとも!」
続いた哄笑にさすがのエドも意識が遠のいた。夫?誰が、誰の?
「殿下をお連れしろ」
しかし狼藉者は何が楽しいのか笑いながら屈強な男に告げた。顔中傷らだけの男は、何も言わずそれに従い、一歩を踏み出す。エドは爪先を引っ込め、ガウンの紐に手をかけた。それは小さな動きだったが――
「男を嫁にもらう趣味があったとは知らなかったぞ、アーチャー!」