既視感
大気は、すばらしく凍てついていた。
慣れている僕にでさえ、刺すような冷気だ。隣を歩く彼女には、どれほどだろう。
僕は、つないでいた手をぎゅっと握って、口を開いた。
「つらくない?メイドン幻使」
彼女は、フードにすっぽり包まれた顔を上げ、僕を見た。
「大丈夫よ。上着もブーツも手袋も、とっても暖かいわ!」
僕も、彼女を、じっと見た。
彼女の頬や鼻のてっぺんは、冷気にさらされ赤く上気しているが、空色の瞳は明るく輝いている。握り返してきた小さな手も、か細く震えたりはしていない。
(本当に大丈夫そうだな)
安心した僕は、幻使に、にっこりと頷いてみせた。
始まりは、ちょっとした雑談だった。
はずみに漏らした僕のふるさとの話を聞いて、彼女が、がぜん興味を持ったのだ。
「見たいわ!オーロラ王神が、生まれて、育った場所なんでしょう?!絶対、行くわ!」
『行きたい』ではなく、『行くわ』と言ったのが、なんとも彼女らしかった。
普段は、あまり主張らしい主張もせず静かに微笑んでいることの多い彼女だが、一度決めると譲らない、芯の強いところがある。
「でも……とっても寒いところだよ?小さなキミなんかが行ったら、カチンコチンに凍ってしまうかもしれない」
僕は、彼女の体が心配で、少し脅してみた。本当に、寒い場所なのだ。
けれども、当然というか案の定というか、彼女には、大した効き目もなかった。
「そんなに寒いの?じゃあ、フードやブーツを用意するわ!ああ、私、オーロラ王神が着ているような、ふわふわの襟の付いた上着やブーツを、一度、着てみたかったのよ!!」
結局、何もかも、彼女の言う通りになった。
幻使に、防寒用の衣装を一揃いあつらえ(そりゃあもう、僕が着ているのなんかとは、比べ物にならないくらいしっかりした作りのやつを)、天聖界は聖氷泉まで、観光旅行に出かけることになったのだ。
そんなことで、僕達は、今、氷の世界を、歩いている。
空中を、大量の光の粒がキラキラと吹き抜けていき、メイドン幻使の目を奪った。
「うわあ……これが『雪』なの?」
幻使が、ミトンをはめた手をキラキラの中に差し出しながら、僕に聞いた。
「ううん」
僕は、首を横に振った。
「これはね、空気中の水分が凍って漂っているんだ。水が蒸発して雲を作る前に凍ってしまうから、この辺りは、雪が降らないんだよ」
「そうなの……。そういえば、全然積もっていないものね」
彼女は、辺りを見回した。
目の前に広がるのは、一面の氷原。
そして、遠くに、氷山の峰々。
氷山の上には、雲一つ無い、銀青色の澄んだ空。
全てが、固く、蒼く、凍りついてーーー。
ここが、僕が生まれて育ったところだった。
僕は、この場所が、大好きだ。
他のどんなところよりも美しい、と、思っている。
けれども、僕のこの考えに賛同してくれるひとは、あまり……いや、ほとんど、いなかった。
変化に乏しく、色味が少なく、生き物の姿をめったに見ることもなく……。
多くのひとにとって、この辺りは、ただ、恐ろしく寒く、寂しい場所でしかないようだ。
僕のふるさとを、手放しで喜んでくれたのは、そうだ、今までに、たったのひとりーーー。
幻使が手を引いたので、僕は、我に帰った。
「どうしたの?メイドン幻使」
彼女は、その大きな瞳を、周りの氷粒に負けないくらい煌めかせ、満面の笑みで僕を見上げていた。
「オーロラ王神のふるさとって、本当に素敵だわ!思った通り……いいえ、それ以上よ!どこまでも蒼くって、透明に輝いていて……こんなに美しい場所って、めったにあるものじゃあないわ!!」
僕は、心臓を、鷲掴みにされたかと、思った。
その表情と言葉は、同じだったから。
この場所を喜んでくれた、たったひとりの、彼……ピーター神子と、全く、同じだったから。
「どうしたの?オーロラ王神」
気が付くと、幻使が、僕の顔を覗き込んでいる。
「『どうしたの』って?」
「だって、今にも泣きそうな顔してるんですもの」
僕は、慌てて、自分の顔を撫でた。
幻使は、心配そうに、僕に聞いた。
「何か、悲しいことが、あったの?」
「違う!……違うよ」
僕は、幻使を、そっと抱きしめた。
「逆だよ。嬉しかったんだ……泣きたいくらい、嬉しかったんだ。僕のふるさとを褒めてくれたのは、メイドン幻使……キミが、二人目だよ」
「二人、目……?」
幻使が、抱きしめられたまま、不思議そうに呟く。
僕は、ゆっくり幻使から体を離すと、彼女の、空色の瞳を見つめた。『彼』にそっくりな、その瞳を。
「そうさ。一人目は、キミの、とうさま」
「とうさま、が……?」
(僕は、メイドン幻使に、ピーターのことを“とうさま”と、呼ばせていた。
いわゆる『お父さん』とは、違う関係だとは分かっていたけれど……やはり彼女は彼の想いから生まれたのだから、彼を、僕や他の人と同じように名前で呼ばせるのは、嫌だったんだ)
僕が頷くと、幻使は、両の手のひらを頬にあてて、ゆっくりと、微笑んだ。
「そうなの。とうさまも、ここを、美しいと思ったのね……」
その言葉を聞いて、僕の胸は、なぜか、痛んだ。