不可視猛毒のバタフライ
12月28日。
クリスマスには間に合わなかったけれど、久しぶりに秋葉原に戻ってきた。昨夜の帰国祝いのパーティは、久しぶりに見るみんなが元気そうで、他愛もない会話がすごく楽しくて、本当にうれしかった。
今日はまゆりとダルは明日のコミマに向けて準備があるらしく、私と岡部、2人だけが午前中からラボに来ている。そろそろ何か食いに出ないかと岡部に誘われて、一緒にカレーを食べに行くことになった。
コートを着て、ラボを出て、裏道から中央通りに出て、なかなか変わらない信号を待ってから渡る。冬の風の冷たさで街路樹の銀杏がきれいな黄色に染まっている下を、岡部と2人で、手をつないで歩く。秋葉原の中央通りでリア充っぷりを周囲に見せつけるのは……ここにダルがいたら即座に復唱を要求されるくらい、恥ずかしいけど気持ちがよかった。
「ねえ、岡部」「なんだ、紅莉栖」
「……この世界線は、もう大きな分岐を起こさないと思う?」
「どうだろうな。夏以来世界線の変化は観測していないし、今のところは安定していると思うんだが」
「分岐点でなければ、私たちの行動は世界線に影響しにくくなるわよね」
「シュタインズ・ゲートは何が起こるかわからないらしいから、断言はできないだろうが……もし本当に何かがあるのなら、その前にまずバイト戦士か、未来からのメールが来そうだな」
今のところは大丈夫だろう、と、岡部は苦笑いする。
「……あのね? 岡部」「どうした? 紅莉栖」
勇気を振り絞って、もう一度。
「バランスが悪いと思うの。均等でないのは、美しくない」
「何の話だ?」
「だって、紅莉栖は名前でしょ? でも、岡部は名字だし」
不思議そうな顔の岡部が、少し考えて、口の端を持ち上げて例の邪悪な笑い顔を作る。
「ならば、凶真様とでも呼べばいいではないか助手よ」「いやそれは無理」
私に一言で拒否られてぐぬぬとうめく岡部。こんな馬鹿げたやり取りも彼なりの照れ隠しだと知った今は、愛しくて仕方がない。
大きな交差点でUDX方向に曲がる。繋いだ岡部の手に少し力が入った。
「お前も、まゆりやダルのように、呼べばいい……お前に呼ばれるなら、否定はしない」
それは鳳凰院凶真としての最大の妥協なのだろうけれど、
「嫌。まだ均等じゃない」
自分の必死ぶりが正直はずかしすぎても、妥協したくない。いつかはそう呼び合って、幸せになりたいって言ったのは誰だっけ?
「しかし……しかしだな! 俺は自分の名前が正直昔から好きではないのだ……その、鳳凰院のことは抜きにしてもどこか間が抜けているし」
「岡部が間が抜けてるのなんか本当のことじゃない! だから私は呼びたいの。あなたの名前を」
そして彼の名を呼ぶ途中で、急に心が痛くなる。
真実の名前がその人の命を縛るって言ったのは誰? その名で彼を傷つけたのは誰?
朧げな夏の記憶と激しい痛みが蘇り、私の口を途中で縛る。
彼は明神坂ガードの一番下で立ち止まって、途中で急に口ごもった私をしばらくじっと見て、困った顔で笑った。
「……そうだな。“太郎”がつかないなら、許してやろう」
戻ってきた返事に、私の方が呆然としてしまう。
私は名前を途中まで言いかけた。“太郎”までは言えなかった。彼はそれを聞いて、私がそう呼びたいのだと解釈した。
「ただし! 2人きりでいるときだけだ!! 皆の前では鳳凰院凶真としての面子がだな!……」
いかに自分の名前が昔から嫌いなのかを必死で主張する彼の姿から不意に脳裏に描かれる仮説。ひらめき。
シュタインズ・ゲートは、岡部倫太郎の存在がなければ成立しなかった世界線。ここに到達するため、過去と未来の岡部倫太郎は壮絶な回数の世界線を繰り返したから、繰り返しによって形成された莫大な量の並行世界には、それぞれに岡部倫太郎が存在していたことになる。
あの夏の終わり、私やまゆリは他世界線での記憶をおぼろげながら保持していた。ごく普通の私たちですらわずかながらも他の世界線の自分に記憶や感情を投射することができるというなら、岡部倫太郎の思念もまた他の世界線へと届くに違いない。記憶を保持したままで世界線を越えることのできる彼の思念は、わずかな情報しか伝達できない私たちと出力の桁が違うのだろうと私は推測していた。受信性能が高い可能性もあったけれど、その結果としての混信を彼が観測した経験がなかったし、思念が強いと考える方がよりシンプルな考え方だったからだ。
世界線を越えるほど強い思念を持った無数の存在が、莫大な世界線の中で、同じようなことを伝達し、互いに受信する。
アトラクタフィールドを横断して、意識の有無を問わず、彼自身のこうありたいという無数の願いが届き、貫かれる。
その願いの中に、私に名前で呼ばれたくない、というものが共通して含まれていたとしたら。
それぞれの世界の岡部倫太郎が無意識に強く電波を飛ばし、その電波が世界線の方向を微妙に曲げて、透明な蝶に変わったのだとしたら。
想像してみてほしい。
神様の無意識の願いを叶えるために、敵味方偶然必然を問わず、NGワードが出た瞬間に神様自身をフルボッコにする世界を。
想像した私は思わず吹きだした。
「いくら呼ばれたくないからってそこまでやるなんて馬鹿なの死ぬの……いや実際死にかけてた気もするし神様の間抜けぶりに震える!」
「は? 神様?」
彼は、意味がわからない、という顔で肩を震わせて笑っている私を見ている。私は意地悪く、
「あんたがどれだけ名前で呼ばれたくないか、今、すごーくよくわかった気がするわよ、倫太郎!」
彼は私の最後の一言に目を見開き、逃げるように後ずさり……なぜかそのまま湿った路面に足を滑らせて後ろにひっくり返ったから、思い切り爆笑するしかない。
これも透明の蝶の影響なのかもしれない。大分岐から半年離れてしまえば、本来はこの程度のネガティブな偶然に過ぎなかったのかも。名前を呼んだ瞬間に胸の奥に堰を切ったように沸き上がる苦い傷みと感情を吐き出すように私は笑い続けた……涙が出てくる。こんな小さな蝶にたぶん翻弄されていた過去の自分が情けない!
それから、動揺し呆然としながらもよろよろと立ち上がった彼の腕に抱きついてみる。爆笑直後のいきなりの行動にものすごく緊張して動揺しているみたいだけど、私はこの腕を離さない。このまま坂を上がって交差点を渡る間だって離さない。
だって、私はどうしようもなくこの神様が大好きで、今はもうその感情を止める必要がないんだから。
「それじゃ早くカレー食べに行きましょ」
そして、頼りない神様が許してくれた、2人だけの新しい真名を呼んだ。
(終)
作品名:不可視猛毒のバタフライ 作家名:Rowen