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不可視猛毒のバタフライ

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 8月12日。
 Dメールは過去を変えることで未来を変える。軽い気持ちで既に変えてしまったものを修正するため、岡部はタイムリープマシンを使って記憶だけの過去回帰を繰り返していた。これは他の世界線の記憶を引き継げる岡部にしかできない。もし私が回帰しても、今の記憶を維持することができない以上、同じ失敗を繰り返すだけだろう。
 阿万音さんのいた未来では、私はSERNの手先としてタイムマシン研究をしていて、まゆりは死に、未来はディストピアとなる。この世界が続けば確実にそうなる。だから必要があればタイムリープマシンを完成させて、岡部を確実に過去へと送りださなければならない……時間はないけれど全ての計器を細かくチェック。寄せ集めのパーツで作っているから漏電なんかしたら洒落にならない。
「牧瀬紅莉栖、何やってんの?」
 ピザを持ったままの阿万音さんが、いつの間にか音もなく私の後ろに立っていた。
「マシンのチェックよ。確実に動くようにしておきたいの」
「ふうん、牧瀬紅莉栖はあたしが失敗すると思ってるんだ」
「違うわ。でも、万が一のときに使えないと困ると思ったから」
「……そうだね。その方がいいかな。失敗してもこの装置がなかったことにしてくれるって思えば、少しは心強いかも」
 それから、ごめんねと小さな声が聞こえた。未来のことを説明してもらってから、彼女の私に対する態度もずいぶん柔らかくなった。彼女は私がSERNに通じていると思い込んでいたけれど、それが真実でないことをやっと信じてくれたからだ。逆に今は、本当に自分が完全にSERNと繋がっていないと言い切れるのか、私の方が不安になっている。直接のつながりはなくても、大学や研究室のスポンサーに関連団体が入っている可能性はある。新学期に向こうに戻ったら詳しく調べてみたほうがいいかもしれない。
「みんなは?」
「向こうで騒ぎ疲れてうとうとしてるよ。みんなで夜通しパーティするのってはじめてだけど楽しいね」
 言って、にんまりと笑った。私に向かってこんな顔をしてくれたのは、はじめてだと思う。
 明日になれば彼女はタイムマシンで過去へと向かう。聞いてみるなら今しかなかった。
「阿万音さん……タイムリープについて聞きたいことがあるんだけど」
「んー、あたしも父さんの作ったのを使わせてもらってるだけだから、難しいことはわかんないよ?」
「わかるところだけでいいの。今の私たちは何も知らないのと変わらないもの。タイムリープできるのは岡部が証明してくれたけど、正直言って、Dメールで過去が変えられるなんて、たぶん誰にも証明できない……」
「Dメールでの過去改変は間違いないよ。未来のオカリンおじさんが証明したって父さんが言ってた。全ての因果に干渉できるわけじゃないけど、タイムリープに比べると影響の規模が段違いだって」
「待って、タイムリープでも因果に干渉できるの?」
「世界線に大きな影響を与えるものでなければ、って条件つきだけどね。……岡部倫太郎が何度もタイムリープして、その度に『彼女』の死に方は色々と変わって、でも、『彼女』が死ぬって結果は変わらない。そういうレベル」
 隣の部屋でうとうとしているはずのまゆりに聞こえないように、声をひそめてくれた。
「世界を変えるほどの変化を起こすためには、Dメールが絶対に必要ってことか」
「タイムマシンもだね。この2つは世界線の影響を受けないって聞いてる。他の技術ではどうしても世界線の収束に打ち勝てないって」
「言葉の定義として、因果律と世界線の収束は別物と考えていいのね?」
「世界線の収束は絶対だよ。AをするとBになるって見た目の関係性が希薄で、状況によっては因果よりは相関関係に見える」
 思い当たるところがある。岡部が言っていた漆原さんの性別がそれに当たる気がする。常識的に考えればメール1通で性別が変化するなんてありえないけれど、恐らくDメールによって起こされる漆原さんの母の行動ではなく、Dメールが所定の文面で届くという事実そのものが重要なのだろう。世界線の収束の結果、ポケベルにDメールが到着するのと漆原さんの性別が変化することに、因果はないが相関があるように見える。
「オカリンおじさんは、複数の世界線を貫いて影響を及ぼすような相関関係も存在するって言ってたんだって。SERNが時々理性的でない行動を取るときには、世界線上での相関関係に縛られていることが多いんだってさ」
 Dメールのように明確ではないけれど、何かと何かをつなぐ、見えない関係。
「例えば、この世界線上でも、誰かの何気ない行動が重大な事態のスイッチになっている可能性がある……」
「あたしたちにはわからないし、岡部倫太郎も彼自身がそれを観測していなければわからないスイッチだね」
 つまりは、この世界のどこかに見えない巨大な蝶が飛んでいて、誰かが触れた瞬間に大風が起きる……その風にひょろひょろの岡部が吹き飛ばされていくイメージに、ふうと息を吐く。
「正直想像もつかないけど、案外世の中ってそんなもので、しかも誰も気づいてないだけなのかもしれないわね……誰もコントロールできないものの心配までする必要はないか」
「それが賢明だよ牧瀬紅莉栖。岡部倫太郎のことが心配なのはわかるけどさ」
「は?」
 阿万音さんが急に変なことを言いだして、これまでそんなことを欠片も考えてなかった私は動揺する。今までの質問はあくまで科学的な興味によるもので岡部がどうとか一切関係ないじゃない! なのにどうして唐突に名前が出てくるのかな!!
「そうかー父さんに聞いたときには絶対嘘だって思ってたけど本当だったんだなーうんうん!」
「えっ、えっ? 阿万音さん何言ってるの? 私が? 岡部を? なんで??」
「あーこれが伝説のツンデレ!」
 伝説ってどういうことなの!?
「でも伝説に比べるとあんまりデレてないよね牧瀬紅莉栖。てっきりもうこの頃には倫太郎~とか言ってるかと思ったのに、名前で読んでるのオカリンおじさんだけだったんだ」
「なななななんで私がおおお岡部のことを倫太郎、なんて呼んでなきゃいけないのよ!!」
 確かに今の岡部は私のことを名前で呼んでいて、それにちょこーっとだけドキドキしてるのは内緒だけど……。
「2人とも、話は終わったのかー?」
 急に聞き慣れた大人の声が後ろでした。岡部をよく下で怒鳴ってるあの大きい人。
「あれー店長どうしたの? ……」
 気楽に振り返った阿万音さんの顔が見る間に厳しくなって、何の迷いもなく背中に隠していた大きなナイフを引き抜き、かざし、突進する! あわてて振り返る私が見たのは、開発室からブラウン工房の店主を一気に出口へと押し出していった阿万音さんと、話し疲れて寝ている……いや、寝ているところを不意打ちされて、不自然な態勢で倒れてもがいている仲間たち。その中でひとり、右足を真っ赤にした岡部がよろめきながらも立ちあがって、戸惑いながらもこちらに足を引きずりながら歩きだす。
 ねえどうして岡部。なんでミスター・ブラウンが。
「……紅莉栖!」
作品名:不可視猛毒のバタフライ 作家名:Rowen