不可視猛毒のバタフライ
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8月11日。
電話レンジをきっかけにここに通いはじめてからまだ2週間くらいしか経ってない。でも、同世代の仲間と毎日顔を合わせて研究する日々がこんなに面白いとは思わなかった。もっと早くここに来ることができていたら、きっと色々変わっていたに違いないって思う……岡部はどうだっていいんだけど、まゆりや橋田たちにもっと早く出会えてたら、素敵だったろう。
けれどそんな幸せな日々も岡部の告白で終わりを告げた。この穏やかな日々がまさか8月13日で終わるだなんて信じたくなかったけれど、私にはあの表情も口ぶりもとても嘘をついているようには見えなかった。隠してたマイフォークのことも知っていたし、あの面倒な鳳凰院凶真が岡部の中からすっかり消えてしまっていたし。
岡部はまゆりを救うことに必死で、私のことは助手でもクリスティーナでもなく紅莉栖と名前で呼ぶようになった。それは私にとってうれしいことのはずだったのに、今は寂しさを感じている。もう母校の授業では私の能力に対応しきれないからと海外留学を勧められたときのように、不満がありながらも愛着を持っていた場所から押し出されて、足元に何もなくなる感覚。
岡部は一人きりでここまでの流れを数えきれないほど繰り返し、失敗した末に、一人ではどうにもならないと諦めて私に助けを求めるようになったのだと話してくれた。そこまでの繰り返しが岡部の心に大きな傷を穿ったのは間違いない。本人は平静を装っているつもりだろうけれど、表情は明らかに乏しくなり口数も減っていて、抑うつが出てるように見える。
どうしてもっと早く、私たちを巻き込んでくれなかったのかな。
案外薄情な奴なのかな。
きっと違う。岡部は面倒なことに私たちを巻き込みたくなかっただけ。狂気の科学者を気取っていた頃は変な行動のせいで見えにくかった彼の精神の本質はひどく真面目で優しくて、おまけに周囲に助けを求めなければいけないと気づくのが遅れるほどに強靭だったんだと思う。出会った頃に今の岡部の姿がもし見えていたら、もっと優しくできていたかもしれないけれど……出会った頃を思い出したら吹き出してしまう。実際は岡部の奴、初対面のときは私のことをゾンビ扱いしてきたんだった。あれは一体なんだったんだろう?
「どうした、紅莉栖」「……ううん、なんでもない」
タイムリープマシン組み立ての手を止めてくすくす笑ってる私を、岡部は不思議そうに見て、そのまま横を向いてあくびをしている。今はラボで2人で徹夜の真っ最中。私は大学の研究室のおかげで徹夜には慣れているけれど、心労もあるんだろう。岡部は随分眠そうにしてる。
「電車があるうちに帰って寝てくればよかったのに」
「確かに俺には何もできないが……お前にだけ徹夜をさせて、俺だけがのうのうと寝ているわけにもいかないだろ」
ほら、こういうところが変に生真面目で優しい。
「実家暮らしなんでしょ、親が心配するんじゃないの?」
「そんなことお前に心配してもらわなくても大丈夫だ……」
居心地悪そうに口を尖らせて、目をそらす。
「ごまかすところを見ると案外凄く怒られるんじゃないの? こらー倫太郎! ちゃんと帰って来いっていったでしょ!って」
「うっ、うるさいぞこのクリスティーナ!」
「ははん図星だ。案外下手に戻ると怒られるから帰らないだけだったり?」
「だまれこのお節介助手!!」
ちょっとおちょくったら顔を真っ赤にしてる。本当はもっと追いつめたら面白そうだけどやめておく。……きっと追いつめすぎたら壊れてしまうと思ったから。
「それじゃ目も覚めたみたいだし、これつけてもらえない?最終調整に安静状態の値をもう一度取っておきたい」
岡部はむう、と顔をしかめ、それでも手渡したヘッドギアをぼさぼさの頭にかぶって、視覚刺激を抑制するために目を閉じた。
私はタイムリープマシンに電源を入れ、次いで脳波モニタを稼働させようとしたらばちん!激しい音とともにいきなり目の前が白く光る! ……スパーク! 漏電? まさかありえない! ヘッドギアをつけたままの岡部が痙攣している! 「岡部!」あわてて岡部の頭からヘッドギアを引き剥がそうとする直前、感電で震えながら岡部は転がり落ちた赤い携帯電話の方向を曲がった指で指差した。
「……このまま……!」
脳波モニタは死んでいたけれどタイムリープマシンは奇跡的に完璧に動いてる。強い電流で肉の焦げた臭い、激しい息遣い。私には目を見開いた岡部を救う技術も時間もない。タイムリープで現在をなかったことにする方が早い! 私は急激に弱っていく彼の呼吸が止まる前に岡部を次の世界へと送り出すしかなかった。
作品名:不可視猛毒のバタフライ 作家名:Rowen