おろかもののうた
芥辺探偵事務所のドアが開け閉めされる音が聞こえた。
だが、アザゼル篤史はソファに大きな身体を沈めるように座ったままで、顔をドアのほうにやることすらしなかった。
ただし、二つ折りタイプの携帯電話はパタンと閉じた。
「……アザゼル君」
そう呼びかけながら、ペンギンに似た姿の悪魔が飛んでくる。
ベルゼブブ優一だ。
「ああ、べーやん、もう帰ってきたんか」
幼なじみといっていいほどの昔からの知り合いに、アザゼルは笑いかける。
ベルゼブブはアザゼルの向かいのソファに着地した。
「はい」
落ち着いた声でベルゼブブは返事をした。
その声には気品がある。
なにしろ魔界の貴族だ。
とはいえ、今の可愛らしい姿からは、あまり連想できないことではあるが。
そういえば、ベルゼブブの本来の姿を長いあいだ見ていない。
これから先も、芥辺がベルゼブブにかけた結界の力を解かない限りは、アザゼルが見ることはないだろう。
アザゼルが魔界に行くことはもうないのだから。
「……さくまさんは」
ベルゼブブの口から出た名前が、アザゼルの耳を打ち、心臓を大きく動かした。
けれども、アザゼルは奥歯を強く噛みあわせて動揺を顔に出さないようにする。
ベルゼブブは続ける。
「お元気そうでしたよ」
「そーか」
感情がこもらないように軽く、アザゼルは言う。
「そら良かったわ」
内心、ほっとしていた。
佐隈が元気そうにしているらしい。
良かった、と思う。
「アザゼル君は見に行かないんですか?」
「はあ?」
「さくまさんの様子を見に行かないんですか?」
ベルゼブブが探るようにアザゼルの眼をじっと見ている。
アザゼルはつい眼をそらし、そらしてしまったことを誤魔化すために、鼻で笑った。
「なんで見にいかなアカンねん。わざわざ見に行くんやったら、あんなんとちごーて、色気のある女にするわ」
ワシは淫奔の悪魔やねんからなァ、と続けそうになって、直前で、どうにか止めた。
もうその台詞を使うことはできない。
「気になっているくせに」
「そんなことないわ、アホらし」
少し強い調子で言って、アザゼルはこの話を終わらせようとした。
だが。
「あなたが気にしていないはずがない」
ベルゼブブは話を終わらせなかった。
「気にしていないなら、さくまさんのことを想わないなら、今のあなたはその姿ではなかったはずです」
その通りだ。
しかし、アザゼルは認めない。黙っている。
「……アザゼル君、あなたの祖先の堕天の理由は、人間に恋をしたからですよね」
ベルゼブブに問いかけられ、けれども、アザゼルは無言のままでいる。
「そして、あなたは、さくまさんをもう二度と危ないめに合わせないために、彼女の中にあった悪魔と関わりのある記憶を消し去る代償として、悪魔としての力を失った」
話を聞いていて、いやおう無しに思い出す。
大ケガを負った佐隈の姿を。
もう二度と、こんなめに合わせたくない。
そう強く思った。苦しいほど願った。
この願いが叶えられるなら。
自分はなにを失ってもいい。
本気で思った。だから、芥辺に頼んだのだ。
芥辺は引き受けた。佐隈が大ケガをしたことについて責任を感じていたからだろう。
「人間を想い、あなたの祖先は天から悪魔に堕ち、さらに、あなたは悪魔から人間に堕ちた」
今のアザゼルは特別な力を持たない、ただの人間だ。
ベルゼブブは低い声で告げる。
「愚か、ですね」
その声は、アザゼルの胸に妙に染みた。
だが、アザゼルは軽く笑ってみせる。
「人間のほうが気楽で、ええで」
アザゼルはソファから立ちあがった。
「どこに行くんですか?」
「アクタベに買い物に行けって言われてたん、思い出したんや」
人間となったアザゼルは芥辺探偵事務所で住み込みで働いている。
「アクタベは人使いが荒いからなァ」
「……さくまさんは、今、大学近くのカフェにいますよ」
「なんや、その、いらん情報は」
「買い物のついでに寄ってみたらどうですか」
「行かへんわ。あんな色気のない女、見たって、なんも楽しないからな」
アザゼルはシャツの胸ポケットに携帯電話を差し入れると、さっさとソファから離れ、事務所の出入り口のほうに向かう。
これから買い物に行く。
佐隈の様子を見に行くつもりはない。
万が一、佐隈がこちらの姿を見つけて、それが原因で記憶を取りもどすことになったら、いけない。
この先ずっと、死ぬまで、会いには行かない。
近くにも行かない。
姿を見ない。
声も聞かない。
それで、自分はいい。