【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・下 +エピローグ
11
憂は改めて姉の方を見た。
「お姉ちゃんが呼んでる…!」
「えっ!?」
憂がひとり呟いた言葉に対して、和が反応した。
「唯が呼んでるって…?」
憂は顔を姉の方へ向けたまま、こくりと頷く。
「うん。お姉ちゃんが私に何か訴えてきた」
「何て?」
「分からない。言葉じゃなかったの。でも私には、今までお姉ちゃんと一緒に暮らしてて、無言でも通じ合える瞬間が何度もあった。そのときと同じ感覚が、今したの」
長い時間を共に過ごしてきたからか、それともDNAのなせる業か、憂には姉に他の者には感じ得ない感覚を感じ取ることができるらしい。
「…でも、いつもの感じと何か違う。何なのこの感覚…。まるで、お姉ちゃんが私の中に入って来たような……。ううん、間違いないわ! 今、お姉ちゃんは私の中にいる」
憂はそう叫ぶと、寝ている姉に駆け寄った。そして、姉に覆いかぶさって、彼女の唇へおもむろに自分の唇を押し当てた。
憂のあまりに意外な行動に、和と姫子は驚きの表情を隠せない。一方で石山は、その様を睨むようにも思える真剣な眼差しで見つめていた。
憂は姉に向かって、口移しであるものを送りこんでいた。ただし、それは唾液や咀嚼した食物というわけではなかった。彼女が送りこんだのは、自らの姉に対する感慨や愛、そういった類のものであった。はじめ、そのような思いは、憂の頭の中に生まれていた。その感覚は徐々に顔の下方へと移り、喉の奥にもやのように溜まった。憂はそれを吐き出したのだ。
ただし、『吐き出したのが姉への思い』というのは飽くまで憂の感覚であり、実はそれは姉の魂そのものだった。今まさに潰えようとしている二葉の世界にいて、「生きたい!」と叫んだ唯。彼女が身におぼえた危機感と生に対する想いは、彼女の全身60兆個もの細胞それぞれのSDR経路を発動させ、発現した過剰な量のSDRタンパクは血流を通じて脳へと向かった。それらのタンパク質が、脳の神経細胞のレセプターにリガンドとして結合することで、通常ははたらいていない神経ネットワークが活性化した。
その活性化によって、唯には図らずも、いわゆる『テレパシー』と『魂のテレポート』を複合させたような能力が使えるようになっていた。つまりは、自分の心や精神といったものを、誰かの脳内に潜り込ませることができるようになっていたのだ。もちろん、唯にはそんな能力が使えるようになったなどという知覚はなかった。彼女はただ必死に祈る中で、ふと自分の妹を思い浮かべた。それは直感であったのか、最も愛する妹であったためか。とにかく、結果的に彼女は魂の移し場所を、自分の妹と決めたのだった。
憂が姉から唇を離して数秒の後、唯は目をあけた。
「あ、あれ…、生きてる…」
目をあけた彼女の第一声だった。
そして彼女は、自分に覆いかぶさる妹にさほど驚く様子もなくこう云った。
「ありがとう。憂のおかげで還ってこれたんだね」
自分の能力については知覚がなかったとしても、自分がこの現実世界に戻ってこれたという結果の原因については、彼女にも理解はできたらしい。
唯が起き上がろうとしたので、憂は身体をどけた。唯は上半身を起こし、ふと隣のベッドを見た。目を覚まさない凜が、そこにはいた。
「…石山先生」
「何かね?」
「凜くんが…」
「賭里須くんがどうした」
「凜くんはもう目を覚ますことはできないのかな…。凜くん、二葉さんの力にやられちゃって…」
唯の言葉に、和も憂も驚いた表情を浮かべた。姫子に至っては「ええ…」という吐息混じりの嗚咽を漏らす。一方で、石山は冷静な様子で唯に訊いた。
「やられて、どうなった。消え去ったか」
「身体は消えちゃった。でも、魂はギー太の中に…」
唯は肩に提げているギー太を抱くように、ギー太のボディへ腕を回した。
「魂はそのギターの中に送り込まれたというわけだな?」
「うん。それで一緒に戦ったの」
「それなら、賭里須くんを救い出すことはできるかも知れん」
「えっ!?」
一同は一斉に石山の方を注目した。
「どうやらそのギターは君がとても大切にしているもののようだ。つまり、それは君の心の中でも大きなウェイトを占めているはず。そんなものの中に、賭里須くんの魂は送りこまれたわけだろう。それがどういうことを意味するか、もう分かるよね」
「まさか…」
「賭里須くんは、精神世界のうちの“君の世界”にいる」
12
人が何かを感じたり考えたりすると、その情報がこの現実世界とは別の世界に蓄積され、保存される。その人の感情や思考を保存する世界が精神世界である。地球上の歴史において、これだけ多くの人々が生まれ、生きてきたのだから、精神世界の大きさもとてつもなく広大なものとなっており、また、その中には個人の思いや考えがまとまって、その人の小さな世界のようなものが形成されている部分がある。つまり、広大な精神世界の中に、人それぞれの小さな世界が散在していることになる。
そう考えると、平沢 唯の世界も精神世界には存在していて、彼女の大切なギターであるからには、ギー太に対する想いもそこにあるはずである。つまり、凜がそのギー太に魂を送りこんだのであれば、唯の世界に凜は存在すると考えてもおかしくはない。
「分かった、私またあっちへ飛ぶよ。そして、絶対に凜くんを連れて帰る」
強い決意を秘めた口調で云ってから、唯は再びベッドに横になり、目をつぶった。そのまま眠りにつこうとしているのだ。5秒、10秒、15秒…、唯はしばらくの間そのままの状態であったが、やがておもむろに目を開いて、再び起き上った。
「ダメだ、眠れない。どうしよう…」
先ほどの決意はどこへやら。唯はおもむろにおろおろし始めた。
「えっと、えっと…、そうだ石山先生、あの薬もっかいちょうだい!」
「ダメだ。あの薬は睡眠薬ではない。SDR因子と一緒に、睡眠導入剤を混ぜてあるだけだ。そしてもう今日の君は、あの薬の限度投与量に到達している。これ以上あの薬を飲ませることはできない」
石山はきっぱりと云う。
「そんなぁ…。じゃ、憂、子守唄歌って!! 憂の歌声で眠るわ」
「えっ、ココで!?」
憂が素っ頓狂な声をあげた。この場で子守唄を歌えと云ってしまうくらい、今の唯は狼狽しているのだ。そんな唯を石山が一喝した。
「騒ぐんじゃない」
唯は行動の上では“おろおろ”をやめて、石山に向き直った。だが、その表情はやはり不安そうだ。
「えっ、だ、だって…」
「眠りという手段に頼らなくとも、君はあっちの世界に行けるのではないか。今から行こうとしているのは、君自身の心の世界なんだろう。ましてや、君は今、自分にとってとても大切なものを、君の両腕に抱えているではないか」
そう云われて、唯は改めてギー太の存在を意識した。ギー太との出会いは、高校1年の春。楽器店であった。展示されているギー太を見て一目ぼれし、高価だったのをムギの協力で安価で購入した。最初は眺めているだけでも満足だったが、次第に弾こうという意思が芽生えてきた。軽音部の仲間たちにコードの押さえ方を教えてもらったりしながら、徐々に弾き方を学んでいった。
「最初に教えてもらったのがC、次がAm……」
憂は改めて姉の方を見た。
「お姉ちゃんが呼んでる…!」
「えっ!?」
憂がひとり呟いた言葉に対して、和が反応した。
「唯が呼んでるって…?」
憂は顔を姉の方へ向けたまま、こくりと頷く。
「うん。お姉ちゃんが私に何か訴えてきた」
「何て?」
「分からない。言葉じゃなかったの。でも私には、今までお姉ちゃんと一緒に暮らしてて、無言でも通じ合える瞬間が何度もあった。そのときと同じ感覚が、今したの」
長い時間を共に過ごしてきたからか、それともDNAのなせる業か、憂には姉に他の者には感じ得ない感覚を感じ取ることができるらしい。
「…でも、いつもの感じと何か違う。何なのこの感覚…。まるで、お姉ちゃんが私の中に入って来たような……。ううん、間違いないわ! 今、お姉ちゃんは私の中にいる」
憂はそう叫ぶと、寝ている姉に駆け寄った。そして、姉に覆いかぶさって、彼女の唇へおもむろに自分の唇を押し当てた。
憂のあまりに意外な行動に、和と姫子は驚きの表情を隠せない。一方で石山は、その様を睨むようにも思える真剣な眼差しで見つめていた。
憂は姉に向かって、口移しであるものを送りこんでいた。ただし、それは唾液や咀嚼した食物というわけではなかった。彼女が送りこんだのは、自らの姉に対する感慨や愛、そういった類のものであった。はじめ、そのような思いは、憂の頭の中に生まれていた。その感覚は徐々に顔の下方へと移り、喉の奥にもやのように溜まった。憂はそれを吐き出したのだ。
ただし、『吐き出したのが姉への思い』というのは飽くまで憂の感覚であり、実はそれは姉の魂そのものだった。今まさに潰えようとしている二葉の世界にいて、「生きたい!」と叫んだ唯。彼女が身におぼえた危機感と生に対する想いは、彼女の全身60兆個もの細胞それぞれのSDR経路を発動させ、発現した過剰な量のSDRタンパクは血流を通じて脳へと向かった。それらのタンパク質が、脳の神経細胞のレセプターにリガンドとして結合することで、通常ははたらいていない神経ネットワークが活性化した。
その活性化によって、唯には図らずも、いわゆる『テレパシー』と『魂のテレポート』を複合させたような能力が使えるようになっていた。つまりは、自分の心や精神といったものを、誰かの脳内に潜り込ませることができるようになっていたのだ。もちろん、唯にはそんな能力が使えるようになったなどという知覚はなかった。彼女はただ必死に祈る中で、ふと自分の妹を思い浮かべた。それは直感であったのか、最も愛する妹であったためか。とにかく、結果的に彼女は魂の移し場所を、自分の妹と決めたのだった。
憂が姉から唇を離して数秒の後、唯は目をあけた。
「あ、あれ…、生きてる…」
目をあけた彼女の第一声だった。
そして彼女は、自分に覆いかぶさる妹にさほど驚く様子もなくこう云った。
「ありがとう。憂のおかげで還ってこれたんだね」
自分の能力については知覚がなかったとしても、自分がこの現実世界に戻ってこれたという結果の原因については、彼女にも理解はできたらしい。
唯が起き上がろうとしたので、憂は身体をどけた。唯は上半身を起こし、ふと隣のベッドを見た。目を覚まさない凜が、そこにはいた。
「…石山先生」
「何かね?」
「凜くんが…」
「賭里須くんがどうした」
「凜くんはもう目を覚ますことはできないのかな…。凜くん、二葉さんの力にやられちゃって…」
唯の言葉に、和も憂も驚いた表情を浮かべた。姫子に至っては「ええ…」という吐息混じりの嗚咽を漏らす。一方で、石山は冷静な様子で唯に訊いた。
「やられて、どうなった。消え去ったか」
「身体は消えちゃった。でも、魂はギー太の中に…」
唯は肩に提げているギー太を抱くように、ギー太のボディへ腕を回した。
「魂はそのギターの中に送り込まれたというわけだな?」
「うん。それで一緒に戦ったの」
「それなら、賭里須くんを救い出すことはできるかも知れん」
「えっ!?」
一同は一斉に石山の方を注目した。
「どうやらそのギターは君がとても大切にしているもののようだ。つまり、それは君の心の中でも大きなウェイトを占めているはず。そんなものの中に、賭里須くんの魂は送りこまれたわけだろう。それがどういうことを意味するか、もう分かるよね」
「まさか…」
「賭里須くんは、精神世界のうちの“君の世界”にいる」
12
人が何かを感じたり考えたりすると、その情報がこの現実世界とは別の世界に蓄積され、保存される。その人の感情や思考を保存する世界が精神世界である。地球上の歴史において、これだけ多くの人々が生まれ、生きてきたのだから、精神世界の大きさもとてつもなく広大なものとなっており、また、その中には個人の思いや考えがまとまって、その人の小さな世界のようなものが形成されている部分がある。つまり、広大な精神世界の中に、人それぞれの小さな世界が散在していることになる。
そう考えると、平沢 唯の世界も精神世界には存在していて、彼女の大切なギターであるからには、ギー太に対する想いもそこにあるはずである。つまり、凜がそのギー太に魂を送りこんだのであれば、唯の世界に凜は存在すると考えてもおかしくはない。
「分かった、私またあっちへ飛ぶよ。そして、絶対に凜くんを連れて帰る」
強い決意を秘めた口調で云ってから、唯は再びベッドに横になり、目をつぶった。そのまま眠りにつこうとしているのだ。5秒、10秒、15秒…、唯はしばらくの間そのままの状態であったが、やがておもむろに目を開いて、再び起き上った。
「ダメだ、眠れない。どうしよう…」
先ほどの決意はどこへやら。唯はおもむろにおろおろし始めた。
「えっと、えっと…、そうだ石山先生、あの薬もっかいちょうだい!」
「ダメだ。あの薬は睡眠薬ではない。SDR因子と一緒に、睡眠導入剤を混ぜてあるだけだ。そしてもう今日の君は、あの薬の限度投与量に到達している。これ以上あの薬を飲ませることはできない」
石山はきっぱりと云う。
「そんなぁ…。じゃ、憂、子守唄歌って!! 憂の歌声で眠るわ」
「えっ、ココで!?」
憂が素っ頓狂な声をあげた。この場で子守唄を歌えと云ってしまうくらい、今の唯は狼狽しているのだ。そんな唯を石山が一喝した。
「騒ぐんじゃない」
唯は行動の上では“おろおろ”をやめて、石山に向き直った。だが、その表情はやはり不安そうだ。
「えっ、だ、だって…」
「眠りという手段に頼らなくとも、君はあっちの世界に行けるのではないか。今から行こうとしているのは、君自身の心の世界なんだろう。ましてや、君は今、自分にとってとても大切なものを、君の両腕に抱えているではないか」
そう云われて、唯は改めてギー太の存在を意識した。ギー太との出会いは、高校1年の春。楽器店であった。展示されているギー太を見て一目ぼれし、高価だったのをムギの協力で安価で購入した。最初は眺めているだけでも満足だったが、次第に弾こうという意思が芽生えてきた。軽音部の仲間たちにコードの押さえ方を教えてもらったりしながら、徐々に弾き方を学んでいった。
「最初に教えてもらったのがC、次がAm……」
作品名:【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・下 +エピローグ 作家名:竹中 友一