この夜にふたり
壁一枚隔てた先で吹き荒ぶ風に天井近くに嵌め込まれたガラス窓がビリビリと鳴く。
寝転がったまま、僅かに視線を動かすと割れたガラスの隙間にチラチラと白く舞うものが映る景色の中、風にあおられているのだろうトタンが時折、耳障りな音を立てて変化を与える。
廃工場を揺らすようなその冬の嵐は、街に雪を連れ込んで――ああこれは積もるかも、と、どこか空言のように帝人は吐息つく。吐くことで生じた肺や喉、唇などの全身の痛みで生きていることを実感して、馬鹿馬鹿しく笑い、増した痛みにまた沈黙した。
「帝人くん?」
掠れた声だった。ともすれば風音に紛れてしまいそうな、けれど焦りやひ弱さは欠片も伺わせない、ただ掠れた声。
結構追いつめられてる筈なんだけどね、この人。と、どこか感心するより憐みすら感じながら、冷めた目で帝人は入り口の重厚な(でも錆びた)扉を背負って立つ男を見る。
満身創痍で地に横たわりながら見上げる笑い顔の男は、トレードマークのファー付コートから足元に至るまで、帝人に負けないくらいボロボロといって良い様だった。帝人が知る限り、それは男自身の身に限ったことではなく、今頃は彼の“仕事場”から“隠れ家”、“宿”に至るまで、主と似たり寄ったりな状況にある筈である。つまり、この男は現状“帰る場所”を失った。
多分自分でも自信を持っているであろう整った顔も青痣つきとあって、正直“ざまぁ”である。
そう、思っても許されるだろう所業の男であった。
けれど、第三者には「お前だけは言うな」と、罵られても受け入れなくてはならないのが帝人の所業だった。
「何笑ってんのキモチワルイ」
笑った顔のまま、不機嫌な声。先ほどよりも明瞭な、不貞腐れた子供のような声に今度は笑みを漏らすことなく帝人は沈黙で答える。筋肉を動かすのも億劫だったし、痛みを伴う。無意識に生まれるもの以外は、制御する方が賢明だと判断しての事だが、男はその反応が気に入らなかったのか石を蹴りあげてきた。顔にあたって地味に痛い。どんだけ子供だ。
帰る場所を、失ったのは帝人も同じだった。
正確に言えば、失ってはいない。“彼ら”は帝人を罵り、非難し、殴りつけはしても、その最後には受け入れてくれるのだろう。そういう人たちだった。決して、清廉ではないが、だからこそ清濁を受け入れ得る人たち。
ただ、そういう人たちだからこそ、「帰れない」と帝人は思うだけだ。
轟々と風が呻く音が空間を揺らす。
熱を持っていた身体が、冷たく重く感じ始められて、ちょっと不味いなと思う。続いていた不摂生に受けた暴力が加わって体力が著しく低下しているのだ。このまま無為に寝転がっていたら明け方には凍死だかなんだかで、死体が一つ出来上がる寸法だろう。
相手が素人で無かった事が寧ろ幸いしたのか、暴力は圧倒的ではあったが、それそのものが生死を分けると言った性質のものではなかった。恐らく、年齢も経験も未熟な帝人への警告といった意味合いであったのだろう。これで死ぬのは、色々駄目人間すぎる気がして取り敢えず身体を起こすことにする。
「あ、起きるんだ」
「……ッ、一、応」
全身が軋るように痛む。が、いざ動いてみるとどうにも動けないほどではない。声も思いのほかスムーズに出た。やけに体が重いのは何日もまともな食生活を行っていないせいで、内臓までは傷つけていないという事だろうと結論付けて、妙に感心する。
プロの仕事だ。洗練されている。帝人ではこうは統制できない。だからこその“結果”だった。
上半身を起こして錆びれた天井を見上げる。
――終わった。
夢が終わったのだ。
自分の手で大切なものを守るという、帝人のありふれた、熱病じみた夢は、たくさんの悪夢を生み出して終わった。
ここで、あの手を取り、また手を取られた日を思い出す。
幼顔と言われる自分より更に幼い顔をした後輩の、あの餓えた瞳もまた、夢見がちなものだった。
今は都内の病院に収容されている彼も、あの時なにかの“特別”を夢見たのだろう。
白い部屋で、放心したかのように項垂れる彼は、帝人より先に夢から離脱したのだ。
子供が見る、夢見がちな、夢から。
「ねぇさっきからニヤニヤ笑って気持ち悪いよ帝人くん何もないのに笑ってるってソレ変態さんだよ」
「それ、さっきも聞きましたよ臨也さん何か他に喋ることないんですかないんですねそうですよねごめんなさいあなた友達とかいませんからね言語的コミュニケーションとか無理ですよねごめんなさい」
「ごめんなさいって二回言った!」
呆れたような声に、呆れた声で答える。
ここにきて、心底呆れた。こんな状況でもスルスルと言葉が飛び出る自分にもだが、それを圧倒して呆然とさせる男だ。
――まだ夢見てるよこの人
黒いコートを隙間風にはためかせて(さっきから寒い)笑みを張り付けて佇む姿はまだどこか中二病患者まっしぐらで“非日常”に演出がかっているから、帝人はもうどうしようもなく切なくなった。
舞台から皆が降りていくと言うのに、幕が下りると言うのに一人気付かずキョトンとしている狂言回し。作りモノの笑みの隙間から「どうして誰も話を続けないの?」と不機嫌に、でも不思議そうに問いかけてくるある種、無垢な瞳。
(赤い、眼、か)
守りたくて、結果、傷つけてしまった少女の悲しげな瞳を思い出す。悲哀と悔恨、そして決意で彩られたあの瞳と、色彩の系統だけ同類のこの瞳。けれど色彩以外何一つ被ること無き瞳はいっそ無様なほどに出会ったあの日から変わらない。
『エアコンみたいな名前だね』
見上げた瞳の頑ななまでの排他感は変わらない。変われないのだ、まだ、この男は。
誰よりも汚らわしく、毒々しく、醜悪にこの夢を愛でて撫でたこの男は、この夜にあってすら変われなかった。家を失い、駒を失い、盤を奪われてすら、まだ。
呆れればいいのか、憐れめばすっきりするのか、嘲るのか、むしろ敬意を払うのか。舞台を去る身としては、どうあしらうべきか、考えるのもすでに億劫で、この人さっさとどっか行ってくれないかな?と帝人は思う。思って――
「ねぇツマンナイ」
「……」
「帝人くん?」
(何でこの人まだ、ここにいるんだろう?)
帝人がここに打ち捨てられてからの正確な時間は解らない。だた、意識を取り戻した時には男は居て、雪が舞い始め、強烈な痛みはある程度収まり、今はもう窓の隙間にのぞく景色は雪化粧に彩られ始めている。
いつもなら、これが、なんてことない“日常”の続きだったなら、この人結構暇なのかな?程度の話だ。嘲るために寒い倉庫で佇み続けるくらいの酔狂さはデフォルトな男だ。その程度には悪趣味だ。
けれど――
「……追われてるんでしょう?さっさと街を出た方がいいですよ。どうせ逃走手段くらい準備してるんでしょう」
「まぁね」
子供で、取るに足らない存在であった帝人とこの男は違った。