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断食月

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断食月


 断食月の夜は騒がしい。
 日没の祈りを促す放送を合図に、日中を飲まず食わずで過ごしたイスラム教徒が雪崩をうって繰り出して、イフタールと呼ばれる断食明けの食事を始める。裕福な人々は施しの料理を振る舞い、街中のレストランやコーヒーハウス、果てはフライドチキンのチェーン店までごった返す。年に一月の書き入れ時に、簡易な屋台の揚げ物屋から高級店、甘い菓子類を売る者まで、食べ物を扱う業者は大わらわだ。
 ただでさえ過密なカイロの人口がさらに増えたかと思われるほど、通りという通りの照明やネオンが夜通し灯り続け、日中は禁じられている煙草の煙とスパイスの香りが立ちこめる中、酒を飲まないムスリム達は、代わりに音楽の恍惚に浸る。
 欧州風な新市街、そしてスークを擁するイスラム旧市街が、この時期になると息を吹き返すアラブ伝統の芸人達の奏でる弦楽器や太鼓、朗々とした歌声で満ち、路上の人々の間にはアラーの威光が作り出した一体感が溢れた。彼らは口々にコーランを朗誦し、互いにその聖典を讃え合う。
 裏通りまで響き渡る街を挙げてのこの騒ぎも、カイロ中心部の外れにある廃墟の、大きな庭園には届かなかった。時おり破れた塀越しに賑やかな笑い声が聞かれるほかは、墓場のように静まりかえって、そこに一羽の鳥が潜んでいるなど、誰も知らない事のようだった。
 彼は古びて崩れかけた壁の窪みに隠れて、硬い羽をつくろっている。
 この建物はエジプト独立の前、英国支配時代に、好事家のイギリス商人が何世紀も前の遺物を改装して住んでいたもので、折衷様式の怪しげな美しさをそなえてはいるものの、あらゆる物があっという間に古びていくこの国の常として、昔日の面影は辛うじて残っているという程度に過ぎない。
 荒れるに任された庭園の植物が、あるいは枯れ、あるいは伸び放題に伸びきった姿をさらし、かつてナイル川の水を引いた水盤だった物と共に青白い月の光を浴びて、長く影を伸ばしていた。同じ光を受けた彼の羽は艶やかに反射する。
 時刻は真夜中を十五分過ぎていた。
 ムスリムとは反対に、彼は夜を断食して過ごしている。隼と名づけられた彼らの種族の目は昼の光に適応していた。
 真夜中を三十分過ぎた。
 念入りに撫でつけていた右の羽から、彼はむくりと顔を上げた。捉えたのは音だ。かすかに、だが確かに、何かが装飾タイルの破片を踏みしだく音がした。
 彼の鋭く曲がった嘴が、不快そうに揺れた。
 彼がねぐらにしているこの廃屋に、ここ幾晩か続けて侵入してくる者がいる。その何かは、彼と同じような生物のようだった。ただし体は彼よりずっと大きく、必ず陽が落ちた後にやってくる。そいつはいつも彼の武器をまともに受けながら、なぜか死にはせずに、また次の夜も彼の前に現れるのだった。
 もう一度、タイルが踏まれる音がした。
 彼は頭を低く下げ、翼を支える強靭な筋肉を引き絞る。
 彼の潜んでいる窪みは、この建物で最も高い塔の上にある。周囲の半径数キロは彼の制空圏だ。太陽が空を渡っている限り、地上から高空に至るまで彼の目が捉えないものはない。だが今は深夜だ。
 それでも眼下に広がる庭園を、彼は見下ろした。そこにはタイルの破片や大理石の欠片が無数に散らばっており、音の位置は特定できそうもない。しかも彼にはそれもはっきりとは見て取れない。
 例の侵入者だ。
 そう判断し、彼は神経を首の後ろ辺りに集中した。
 大きく黒い目に白い光が跳ね返る。
 青灰色の羽毛に覆われた背から、実体を持たない影のようなものが分離し始めた。何かの動物の骨格に似たそれは、まず頚椎にあたる部分を持ち上げ、次に翼を、明らかに飛ぶ為にあるのではない骨だけの短い翼を広げ、最後に首をたわませて頭部を引っ張り出し、腰から下は癒着したまま、ゆっくりと夜空を仰ぐと、巨大な顎を開いて音にならない咆哮を上げた。
 それが人の目に映るのなら、月と廃墟を背景に黒いシルエットを描く二重体の猛禽はひどく不吉に見えるだろう。
 グロテスクなまでに攻撃的な分身と共に、隼は再び庭園を見下ろした。鉤爪をゆるめ、腿を緊張させていつでも飛び立てる姿勢をとる。
 今夜はどちらが先か。
 最初の晩は彼が先手をとり、次の夜は相手が先に仕掛けてきた。どちらも決め手を欠いたこの数夜、彼らはいたずらに庭園の荒廃に拍車をかけただけで、どちらの目的も、テリトリーを守るという彼の目的も、侵入者の謎めいた目的も達成することはできないでいた。
 日没以来、怠りなく整えてきた戦闘準備が、そろそろ生かされるタイミングのようだ。
 食いしばった彼の嘴と、不気味に開いて薄笑いを浮かべたような骨の嘴が完全に連動した動きで廃園を警戒する。
 静かな廃墟に、遠く市街地の喧騒が風に乗って流れてくる。
 時々思い出したように水盤跡から流れ出す水が作った小さな水溜りに、半月より少し大きな月が映って揺れる。
 建物の裏の通りから、一団の男の声が聞えてきた。帰宅の途中か、高揚した声高な調子でしばらく談笑した後、一人が叫んだ。
「アッラーアクバル!(アラー神は偉大なり!)」
その瞬間、彼の隠れる窪みに何かが弾丸のように飛んで来て砕け散り、塔の石材にぽっかりと小さな穴が空いた。しかし同時に二重体の猛禽は弾丸より速く飛び立って数秒の間に高度三〇〇フィートに達し、一声たかく雄叫びを上げる。
 午前一時、今夜の攻防が始まった。
作品名:断食月 作家名:塚原