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断食月

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夜空を照らす市街地のけばけばしい照明が、砂漠の埃にかすんで見える。
 耳元で風の裂ける音を聞きながら、彼は上空で急旋回した。隼族の特徴である、先端までピンと伸びた直線的な翼を傾かせ、分身と共に庭園を一巡りする。
 黒っぽい塊となった廃屋から彼の潜んでいた塔がそそり立ち、その裏側の道路にはぼんやり明るく灯が点っている。先程叫んだ男は帰宅の途中ではなく、隣家の住人のようだ。どうやら客を送り出しているらしい。
 廃園では相変わらず様々な破片や断片が反射し、水溜りの月が一際つよく光を返してくる。彼の目が夜に適していれば、高速で旋回する小さな影が見えるだろう。
 力強く高空を滑る肉体の翼とは対照的に、実体のない骨の分身が悠然と羽を開く。それは長かったはずの翼の付け根から重い刃物で断ち切られたように矮小で、その奇形的な気味の悪さに比例するほどに強力な、攻撃の機能を持っている。
 脊椎から直接生え出たようなその翼の先には、三対の突起があった。
 白く濁った青い夜空を飛び過ぎながら、彼はその突起を次々に動かした。思い通りに動く。意識を集中し、反撃の準備を整える。
 順繰りに蠢く骨の棘が、チカリと閃いた。奇妙な事に、影のような存在である骨の先端が実在の月の光を受けて光っている。その光はみるみる成長し、まるで断ち切られた翼が再生でもしたかのように長く、そして鋭い三対の円錐を形作る。
 猛々しく尖ったそれは、氷塊だった。
 隼とその分身は、ぞろりと並んだ氷の弾丸を振り上げて、薄笑い風に曲がった嘴を地上に向けた。あとは獲物を見つけるばかりだ。
 打ち捨てられた庭園は眼下に広がり、静かに推移を見守っている。隠れ場所に何かを撃ち込んできた者が、そのどこかに身を潜めている。
 突然、空気が甲高く鳴った。
 小さな物が彼を狙って飛んでくる。
 もちろん聞えている。難なく躱して、次を待つ。
 この数夜で相手のやり方は承知している。侵入者は、よく人間が鳥を目がけて小石を投げたりするように、何弾かを続けて撃ち込んでは様子を窺う。高度を上げ、彼は廃園を睨んだ。
 また空気が鳴った。二弾目だ。
 見えた。
 隼の精密な目が、その弾道を捉えた。骨の嘴が吼え、氷の弾丸が、飛んだ。
 恐ろしい発射速度で骨の棘を離れた最初の一対がまず敵弾を迎撃し、続いて残り二対、そして二重体の猛禽が急降下して、その後を追う。
 氷の弾に破壊された侵入者の弾丸は、庭に散らばっていたタイル片だった。粉々に砕けて散らばるその中をくぐり、隼は飛ぶ。破片が硬い翼に当たって音を立てる。
 敵の発射点は廃墟の影と月光の境目、着弾の寸前チラリと一瞬、白っぽいものが見えた。
 相手は横ざまに跳躍して氷を避けた。
 隼の目は見逃さない。実に時速三〇〇キロで降下しながら、彼は進行方向を捻じ曲げた。その分身は早くも再装填を終えて、三対の氷をきらめかせている。
 地上すれすれで反転、激突を回避し、闇に紛れようとしていた獲物を狙って、三対を斉射する。
 ほぼ同時に侵入者もいくつものタイル片を一斉に投げつけてきた。
 両者の弾幕が迎撃し合い、流れ弾となった数発が互いの足元で土煙を上げる。
 土の硝煙が晴れた時には、すでに彼は急上昇して月光の中にいた。
 隼は特に飛翔の能力に優れた種族である。高速で飛び、さらに氷を操る分身を持った彼のテリトリーに侵入しながら生きて帰ったのは、いま戦っている相手ただ一人、しかし今夜は少し勝手が違った。
 月だ。
 満月にはならないまでも、よく晴れて明るい今夜の月は彼にとってありがたい要素ではあった。が、それは相手にも同じことだろう。むしろ隠れて狙撃してくる侵入者に有利かもしれない。
 早く仕留めなければ。
危険は承知の上だ。月に身をさらしたまま、焙り出すつもりで、彼は連続して氷を放った。
 廃墟と平行して飛びながら、三対、また三対と、音もなく装填される氷弾を撃ち込む。相対した辺りを中心に、弾ごとの間隔およそ十数センチという徹底した絨毯爆撃だ。まったく静かに、ただ地面に氷柱が突き刺さる鈍い衝撃音だけをともなって、隼は飛ぶ。
 通りを隔てた民家では、まだ別れを惜しむ声がする。廃墟に潜む怪鳥も、それをおびやかす不死身の侵入者も知らない彼らは、晴れやかな祝祭の気分を撒き散らしていた。
 庭園のどこかで、トン、と軽い音がした。
 爆撃音にかき消されて、それは彼の耳には届かない。
 不意に、月が翳った。
 隼の首に生えた鱗のような羽毛が、何かを感知して逆立った。
 反射的に翼が角度を変えた。
 無理矢理な急旋回のさなか、彼の視界に写ったものは大柄な人型と、彼の分身に似て光を透過する白い影、それが月を背にして巨大な腕を振りかぶり、空をつかむ姿だった。
 高度一〇〇フィート、生身の、人間ではあり得ない。
 こいつだ。
 ここまで跳び上がったのか。初めて全身を現した侵入者が、飛びすぎる彼を見返してくる。
 獣じみた鋭さを持った淡褐色の目で、そいつはニヤリと笑った。それが幻影のように、彼の黒い虹彩に映る。
 恐ろしい。
本能の告げる力の差が、歴然として彼に迫る。
 しかし、彼は怯みはしなかった。
 二対四弾が、まだ発射されずに残っている。迷わず、その目を狙って撃った。
 影を連れた侵入者は氷弾をまともに受けて、あっけないほど簡単に吹き飛んだ。
 まだだ。
昨晩も、その前夜も、幾度となく弾は当たった。しかし死ぬ事を忘れたような侵入者はそのつど立ち上がってきた。
 まだ死んではいない。
 証拠がある。吹き飛んだその大きな体は、石造りの廃墟を粉砕して倒れる代わりに二本の脚で着地して、素早くどこかへ消えた。
 後にはどす黒く血のあとが残るばかり、それも途切れがちだ。彼に人間並みの知能があるならその異様さが理解できたろうが、白い影の侵入者の出血はまるでほんの数秒で止まったかのようだった。
 隼は高く飛んだ。
 廃墟にそびえる塔の砂色をした肌を一直線に切り裂いて、彼の影も上昇する。
 上空から眺めると、彼のテリトリーはまったく安泰のように見える。
 地上から眺めると、彼の力強い翼は夜空に溶け込んだように見える。
 隣家では楽器の演奏が始まった。楽しげに賑やかに、彼らは見慣れた廃屋で怪物達が争っているなど夢にも思わないのだろう。
 アラーを称えた男が、朗々たる声で歌い始めた。曲は十年ほど前に亡くなった伝説の歌い手ウンム・クルスームの代表作『廃墟』。
 切々と流れるその旋律を、影を連れた侵入者は血糊を拭いながら聴いた。内側からはぜ割れたように口を空けた頬を一撫ですると、嘘のように滑らかな皮膚が現れる。文字通りの不死身のようだった。
 侵入者は空を窺った。一度は隠れたものの、そろそろ決着をつける頃合だ。
 その時、月の不完全な円盤の中から黒光りする爪を閃かし、隼が現れた。
 午前一時から数分がすぎようとしている。
作品名:断食月 作家名:塚原