迂回する羽化
高校を卒業した後、秋丸恭平は少し壊れた。推薦入試で既に合格を決めていた秋丸は、2月には大学生活を過ごす部屋を決め、卒業式が終わるや否や、といった早さで引っ越しを終えた。
初めの数週間こそ、秋丸の家族も、息子の一人暮らしを心配していたが、元々どちらかというと放任主義なのもあって、すぐに秋丸は親の目から離れることとなった。
だから、入学式までに秋丸が済ませたあれこれを知る者は、彼の身近にはいなかった。
異変が発覚したのは、初夏。武蔵野高校野球部のOBで、夏休みに集まろうとの計画が持ち上がった時だった。
まず発起人の大河が秋丸にメールを送った。メールが宛先不明で戻ってきたのを見て、彼は、ああメールアドレスを変えたのか、と軽く思っただけだった。
「ちゃんと連絡しろよなあ」
そう思いながら、大河は恋人の涼音へ、「秋丸、メルアド変わった? 新しいの教えてくれ」とメールを送った。
返信は、「変わったの? 知らないよ?」だった。
やれやれ、うちの(元)鬼マネージャーに連絡先変更を伝え忘れるとは、困ったやつだ、などと思いながらも、大河はまだのんきに構えていた。
やっと、おかしさに気がついたのは、野球部のOBが誰一人、秋丸の今の連絡先を知らず、更に榛名でさえ、何も聞かされていないと分かった時だった。
秋丸は、高校時代までの人間関係を、そっくり捨ててしまっていた。
扉を開けた阿部は、店内を見渡して、待ち合わせの人物を見つけると、早足で席まで向かった。
「すみません、待たせてしまって」
阿部の言葉に、相手は手をひらひらと振り、笑って見せた。
「いいよいいよ、こっちが呼び出してんだし。練習だったんでしょ?」
大きなエナメルのバッグを肩にかけ、額に汗を浮かばせた阿部は、お疲れさま、と労われた。
「夏大もうすぐだもんね。どう、勝てそう?」
「勝ちます」
間髪いれずにそう言う阿部に、あはは、とその人物は笑い声をあげた。
「そうだね、その意気だ。ところで、タカヤくん、何飲む? 喉乾いたでしょ」
「あ、ハイ。えっと、アイスコーヒーで」
「りょーかい」
手を挙げてウェイトレスを呼び、注文を終えると、さほど待たずに飲み物が運ばれてきた。
阿部は、ひと口飲んだところで、それで、と切り出した。
「今度は何にはまってるんですか、秋丸さん」
阿部の言葉に、秋丸はニヤリと笑って応えた。
「今はね、ベース」
阿部は、春先からこちら、度々秋丸に呼び出され、会うようになっていた。大学生になった秋丸にはじめて会った時、阿部はひどく驚く羽目になった。
トレードマークだった眼鏡が彼の顔から姿を消し、髪は以前よりずっと明るい色に染められ、きちんとセットして逆立っている。阿部はファッションのことはよく分からないが、服装も、おそらくそれまでの彼だったら、身につけることはなかっただろう、と思える派手さだった、
口を大きくあけたまま、しばらく絶句している阿部に、秋丸は腹をかかえて笑ったものだった。
「いやあ、そこまで驚かれると、やった甲斐があるわー」
いい反応ありがとう、となおも笑いながら秋丸は言った。
「……なんかあったんスか?」
阿部がそう尋ねるのも無理のない話だった。高校時代の秋丸は、およそ、冒険とは無縁の男だったからだ。
しかし、秋丸の答えはあくまで軽い調子のものだった。
「いや? ただ、せっかくだから、今までやったことないことを何でもやってやろうって思ってさ」
「はあ……」
「大学って、やっぱアレだな。高校までと全然違うなあ」
「そうなんですか」
「うん。だって、やっぱり高校までって、土地に縛られるっていうかさ、昔からの地続きな感じがあるじゃない。でも、大学だとそういうのなくて」
気楽だー、と言って秋丸は笑った。
そういうものなのだろうか、と阿部は首をひねった。阿部自身は、今の環境に満足しているので、秋丸の言う「気楽」の感覚はよく分からなかった。
「でも、一人暮らしって大変じゃないですか? メシとか」
「あー、まあそれはあるけど、割と慣れる。それより、自分のペースで生活できるのって、楽だよー」
「そんなもんスかね」
「うんうん。飲みの時とかも、実家暮らしのやつは帰る時間気にしなきゃいけないけど、その辺一人暮らしだと何も考えなくていーし」
飲み会の話となると、ますます阿部には分からない世界だった。
「あ、ごめん。健全な高校生にする話じゃないね」
「オレはいーっすけど。でも、ちょっとまだビックリしてます」
阿部は再び、まじまじと秋丸を見て言った。
「なんか、秋丸さんだけど、秋丸さんじゃないみてー」
その言葉に秋丸は目を細めて笑みを浮かべた。
「そうじゃなきゃ意味がないからね」
その日を皮切りに、阿部は秋丸と何度も会っている。会う度に、秋丸は新たな変化を身につけており、阿部を幾度も驚かせた。以前に会った時にに凝っていると言っていたものが、再び会う時にはすっかりお払い箱になっている、といった忙しなさだった。
アルコールと煙草はもはや珍しいものではなく、秋丸にとっては日常になっているらしかった。(阿部の前では決して煙草は吸わなかったが)
恋人は短い期間に二人ほど変わったらしい。バイトを始め、金銭的に余裕ができるようになってからは、服だの時計だの、更にあれこれ拘るようになっていた。
「ベース、って、あの、楽器の?」
阿部が尋ねると、そうそう、と秋丸が相づちを打った。
「サークルの友達ん部屋いったら置いてあってさー、試しに触らせてもらったら結構楽しかったんだよね。で、今はそいつのお下がり使って遊んでる」
秋丸は携帯電話を開いて、友達に撮ってもらったらしい写真を阿部に見せた。
「へええ」
「タカヤくんも興味あるなら教えるよ」
「あー、オレ、音楽とかダメらしいんで。なんか音感? とかリズム感? がゼツボー的にないって言われる」
確かに無さそー、と秋丸は遠慮なく言って笑った。
「いいんです。オレには野球があるし」
「まあねえ。タカヤくんて、ザ・球児だもんね」
阿部は、秋丸の言い回しに思わず吹き出してしまう。
「何すかソレ」
「球児の中の球児。頭ん中全部野球で、野球以外は全部オマケ」
「誉め言葉っすね」
「もちろん。そうやって一つのことに熱中し続けるのって、才能だよねえ」
「秋丸さんもしてたでしょ、高校ん時」
阿部は、何気なく言ったつもりだった。けれども、秋丸の表情が変わったのを見て、目をしばたたかせた。
「さあ? 熱中してるふり、なら才能なくてもできるからねえ」
皮肉げな表情でそう言ったあと、秋丸はぱっと切り替えて、また明るい顔で別の話を始めた。
それからまだしばらく話し続けたあと、二人は店の前で分かれることになった。阿部は、挨拶の前にこれだけは、と思って言った。
「さっきの話ですけど」
「ん?」
「ふりとかじゃなかったと思います」
阿部の位置からは、秋丸の顔はちょうど影になっていて見えなかった。
「タカヤ君て、結構うっとうしいよね」
「あんたは、ひねくれすぎだ」
まっすぐに阿部が言うと、うん、と存外素直な声がかえってきた。
「オレもそう思うよ」