迂回する羽化
「だから、あいつが放っといて欲しがってるんなら、しょーがねーじゃないすか」
大河からかかってきた電話に、榛名がそう言うと、突然電話の主が切り替わった。
「しょーがなくない! 大事な後輩のことなんだもん! 心配になって当たり前でしょ!?」
「み、宮下先輩」
「榛名は秋丸と幼なじみなんだし、何か聞いてないの? 秋丸の家族から」
「や、あそこんち、すげー放任なんすよ。まあ、一応、新しい連絡先知らないかって、おばさんには聞いてみますけど」
「うん、お願い、榛名」
憧れだった女性から聞く、お願い、という言葉は、今でも甘く、心地よいものだった。榛名の口元が少しほころんだ。
「じゃあ、何か分かったらまた連絡しますんで」
「よろしくね。あ、榛名!」
そのまま通話を切ろうとした榛名を、涼音が呼びとめる。
「今は忙しいだろうけど、オフシーズンになったら、みんなで会おうよね! あんたも、秋丸も、みんな一緒にだよ!」
はい、楽しみにしてます、と返して、今度こそ通話を終えた。
携帯電話を握ったまま、榛名はぼんやりと、壁に貼った写真を眺めた。念願叶ってプロ野球選手となった榛名は、今は球団の寮で生活をしている。部屋の中は、雑然としてはいるが、余計なものがほとんどないので、どこか殺風景な印象がある。
その中で、唯一、ぬくもりらしいものを宿しているのが、その写真だった。榛名が高校を卒業する時に、OBたちも駆けつけて、部員みんなと撮った写真だ。
榛名は、フレームいっぱいに写った顔たちの中から、幼馴染のそれを見つけだして、左手の指で強く弾いた。
「何やってんだよ、おめーはよ」
それまで、阿部と秋丸が会うのは、秋丸が誘いをかけて阿部の予定に合わせる形だったが、その日は、初めて阿部の方から秋丸へ連絡を取り、会うことになった日だった。
「なんでオレなんだ、とは思ってましたけど、なんでオレ『だけ』なんですか」
開口一番に阿部が言うと、秋丸は、いつも通りの落ち着いた表情で、榛名から聞いた? と尋ね返した。阿部は、無言で携帯の着信履歴を表示して秋丸に突きつける。
「うわ……、熱烈ぅ…」
ずらりと並んだ名前は、榛名元希ただひとりで埋まっている。
「こっちゃ、今更榛名には用はないんですから、無視してたんですけど、この通りしつこかったんで」
「あいつ、時々異常な根気強さ発揮するよな」
「そっちにもかかってきてるんですよね?」
「うん。マナーモードにしてずっと放置だけど。最近、肩こりひどいから、マッサージ機代わりにしたりしてる」
阿部は、がっくりとうなだれた。榛名は相当にアクの強い人物だが、その榛名とずっと付き合い続けてきたこの男も、かなりの人物であるのは間違いはなかった。
数日前に、しぶしぶ電話に応じた阿部が聞かされたのは、思いもよらない事実だった。秋丸は大学入学と同時に連絡先を変えたこと、そしてそれを、家族と阿部のほかには告げていないこと、春以降に秋丸が会っている旧知の人物は、やはり家族をのぞいては阿部だけであること。
「秋丸のおばちゃん、あら元希君に教えてなかったの? あの子ったら抜けてるわねえ、でもほら、誰だったかしら、元希くんの後輩のなんとか君とはよく会ってるらしいから、てっきり元希君も知ってると思ってたわ、なんて言ってたぞ。武蔵野かって聞いたら、そうじゃないって言うし、そしたらお前しかいねーじゃねーか! なんでお前が秋丸に会ってんだよ」
榛名はそこまでを一気にがなり立てた。
「知りませんよ、そんなの。それこそ秋丸さんに聞けばいいでしょ。オレだって、まさか他の人には全然会ってないなんて、知らなかったんですから」
「なんなんだアイツ、意味わかんねー」
「それはこっちの台詞です」
しばらく不毛な言い合いが続いたあと、とにかく、と阿部は言った。
「今度会った時に、色々聞いてみますから」
そうなだめて、ようやく通話を終えることに成功した。そして、それからすぐに秋丸に会う約束を取り付けるメールを送ったのだった。
秋丸は、まるで他人事のようなのん気さで、そういえば、前にタカヤ君と会ったあと、母さんに遭遇したんだった、と言った。秋丸自身は今は東京住まいだったが、阿部に会うときだけは埼玉に戻ってきているのだった。
「やっぱ、地元だとあちらこちらに身内やら知り合いやらが居て面倒だよねえ」
「……別に、やましいことがないなら、構わないじゃないですか」
うーん、と秋丸はうなった。
「やましいってのは、違うかな。ただ、邪魔なだけで」
邪魔、という言葉を口にする時、秋丸は言いよどまなかった。阿部はさすがに顔をしかめる。
「そういう言い方は、ネーでしょ。嫌いなんですか」
「野球部のみんなのこと? 好きだよ?」
それなら、一体なぜこうも彼らを避けるのか、阿部が尋ねようとすると、それより先に秋丸が言った。
「でも、やっとなんだよ。大学に入って、やっと手に入れたんだ」
続く言葉を紡ぐ前に、一度口を閉じ、今度は重いかたまりを吐き出すようにして、彼は言った。
「榛名のいない世界だ」
一番の重石を外して、せき止められていたものがあふれだしたのだろう。秋丸は、まさに、立て板に水のごとくしゃべりはじめた。
「あいつ、榛名は、麻薬みたいなもんだよ。俺は、結構小さい頃に、自分の世界の中心が俺じゃないってことに気がついたんだよ。だって、榛名がいたからね。あれだけ、誰でもかれでも、人を惹きつけるのが近くにいたら、そう思うのは不思議じゃないだろう? 俺は、いつも榛名が回す世界にいて、榛名越しに色んなものを見ていたんだ。それが分かってるのに、馬鹿みたいにあいつから離れられなかった。本当に馬鹿みたいに」
そこまで言うと、秋丸は自分のシャツのポケットをさぐり始め、そこに目的のものがないことに気がつくと、ひとつため息をついてから諦めた。いつもならそこに煙草を入れておくのだが、今日は阿部と会うので、家に置いてきているのだ。
「その上、あいつはあいつで、俺が完全に榛名の側に行かないことに、腹を立ててたんだ。もっと真剣になれ、って何度も言われたよ。あんまりうるさいんで、高校の三年目はお望みどおりに真剣になって野球に打ち込んでる振りをしてやった。実際、自分でも本当に野球に熱中してるんじゃないかと、少しは思ったこともあったよ。ほんの少しね。けど、俺たちの代の最後の試合が終わった時に、なんかの線が切れたんだ。それで、もういいだろ、もう沢山だって思ったんだ。もう、榛名のいる世界なんてうんざりだって」
感情の奔流が目の前でうずまいている姿に、阿部はただ圧倒されていた。ここ数ヶ月会ってきた男の中に、これほどの葛藤があったとは、思いもよらなかったのだ。
「だけど、大学合格が決まって、一人暮らしの部屋に引っ越して、メルアドと電話番号変えて、そこまでやったあと、俺、びっくりしたんだよ。あれもやろうこれもやろうって考えてたはずなのに、何にもやりたくなんかなかったんだ。笑っちゃうだろ」