血ノ涙
ビクトールにはまるで手負いの獣が暴れ出したように見えた。
ルックが大規模な紋章を使った。それによりハイランドの援軍として参戦していたハルモニア勢は大打撃を受け潰走した。カスミの部隊が暗躍し、敵は白狼軍本隊を残して撤退し始めている。斥候を通じて戦の全体を把握していた。けれど、目の前では予想を超えた現実があった。
キバの部隊と睨み合っていたルカ・ブライトは、その標的をリオウの部隊に変えた。まるで喉元に喰らいつくように深く切り込み、新同盟軍の旗が一度は降ろされた。ビクトールですら最悪の状態を一瞬考えたが、すぐに盾の紋章が使われるのが見えた。
ルカは親衛隊を分断させた後、援護にきたキバと対峙した。二つに分かれ、さらに四隊に分かれ、キバの部隊を四方から囲む。キバも軍全体を縦列に変え、すき間を縫う様に衝突を避ける。突き抜けた後、すぐさま横に広がり、反転した。そのままルカを飲み込もうとするが、ルカは唯一足並みが遅れた部分を見逃さず、狙って突き崩した。すべては一瞬一瞬の間に判断され、展開していく。ルカも、それに対応するキバも、精強だった。
キバは隊形を魚燐型に組み替える。ルカの隊はすばやく鶴翼の陣になる。ビクトールも自軍を動かし、ルカの側面を狙った。このまま駆け抜ければ、打撃を与えられる。与えられるはずだった。
隊の後ろから、衝撃が走った。将でありながら魚燐の中心にいたビクトールはとっさに判断がつかない。
「後方より攻撃を受けました!」
「なんだって?!」
退却しかけていた敵軍が、戻ってきていた。ルカの本隊に士気を取り戻したのか。ビクトールはとっさに隊を反転させるが、押されて崩れかかっている。
「くそっ、釣られたっ!!」
ルカの部隊に、その圧倒的な強さに、誰もが惹き付けられた。その敵に、背後を見せている。隊全体に再び動揺が駆け抜ける。ルカの部隊が二つに分かれ、片方がビクトールの部隊を襲っていた。このまま全滅か。とっさに、ビクトールは前へと部隊を強引に推し進める。ルカに構えるより、最初に攻撃された部隊を崩した方が持ちこたえられるはずだった。背後からの圧迫はすぐに消えた。キバを相手に半分の人数では対応できなかったのだろう。ビクトールもなんとか持ちこたえ、敵将の首を取った。散っていく敵を追いかけながら、一度だけ振り返った。堅陣をひくキバ相手に、ルカは自分を中心に円状に陣を組み、歯車のように回転させながら下がっていくのが見えた。
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シュウは親衛隊の最後尾にいた。馬上から、すべての戦を見ていた。
策は上手くいっていた。むしろ、ハルモニア軍を撤退させたルックの紋章も、即席で作ったカスミの部隊も、こちらに寝返ったばかりで辛い心境のはずのキバの部隊も、すべてシュウの期待以上の働きだった。
「これが……」
たった一人の率いる部隊が、すべてを変えた。知より武が勝った。それが結果だった。
シュウの近くに斥候が一人、近づいてきた。
「前線より伝令。申し上げます。白狼軍本隊は撤退。リオウ様、ビクトール様、キバ様の部隊の他に、テレーズ様、エイダ様の両部隊にも損害が出ているとのことです」
「……退却の命を出せ。殿軍はギルバートに」
「かしこまりました」
斥候は一度頷くが、すぐには行こうとしなかった。
「シュウ様」
「なんだ」
「右手に怪我を負われています」
言われて見てみれば、無意識に手綱を放して握りしめていた。ゆっくり開くと、爪が食い込んだ先から、血が垂れた。
「これが、ルカ・ブライト……」
再びどろりと一筋、シュウの右手から血が流れた。