彗クロ 3
3-1
砂埃の微細な粒子が飽和した薄闇を、深緑の髪が掻き分けて翻る。淡く溶け広がったオレンジ色の光を背負って、柔らかな翠に縁取られる。
曖昧な陰影から読み取れる面差しは、愛らしい少女。
深い色合いの瞳が、零れ落ちんばかりに見開かれていく。
驚愕か、感動か。にわかに上気した両頬を、感極まったように手のひらで抑え、そして、
「…………きゃ」
小さく隆起した喉が、無情に上下した。
「――きゃっわーん♪ ちっさいルークみっけ〜! なにこれレプリカ!? すごぉい、大発見じゃん! フロリンちょーフシギ〜ちょーラッキー☆」
……どう見ても美少女と見紛う、変声期後半の、健常な青年が、長身をくねらせて身悶えしている。
未知との遭遇に全身に玉のような汗をかいて凍りつくレグルの背後で、ルークが遠巻きに、ぼそっと落とした。
「アニスの教育、パネェ……」
ルークの隣でただ一人意味を理解したアゲイトが、ぶは、と盛大に吹き出した。
***
「なんだこれは」
大詠師トリトハイムは、その温厚な人柄の知れる面立ちに率直な驚きを載せて、実に素直な心境をストレートに疑問文に変換した。
「脱走犯に関する報告書です」
儀式卓を挟んだ対岸に軍人式の直立不動を体現する少女が、しらっと答えた。投げやりじみた言いぐさの裏には、腹を据えた開き直りの色が濃い。場所は大聖堂、実質上の現最高責任者の御前。十代半ばにして、なかなかの胆力と言えた。
一方、トリトハイムの眉は八の字に下がる。
「脱走犯……」
「昨日の早朝、堂々と正門から出てったみたいです。門番も、どうせ遠くにはいけないだろうって、あっさり見逃したそうです」
「しかし、夜になっても帰ってこなかったと?」
「私が情報を止めました。実を言うとわりとよくあることだったので、一晩は様子を見ようと」
「……。確かに、彼の意思を軽んじてまで教団に縛り付けておく権利は、我々にはないが……」
「ええ、首輪つけておかなかったんだから、逃げられても仕方ないですよね」
「…………。権利はなくとも、保護者としての義務は生じる。このような状況に陥ったこと自体が、我々の力不足だとは思わぬかね」
「あいつが勝手にやらかしたことなんだから、そこまでの責任は負いかねます」
にべもない言葉尻には、今度という今度は腹に据えかねたとばかりの鬼気を孕んではばからない。この日に至るまでの諸々を思えば、致し方ないことではあった。なんといっても、『脱走犯』と称される人物の前科ときたら多種多様、枚挙に暇がない始末である。
トリトハイムは深々とため息を落とした。目の前の懸案についてももちろんだが、年少の部下に気軽に八つ当たりをされている事実に対するやるせなさを、含まぬでもない。
「……それで。当の『脱走犯』の姿が見えないということは、これは事後報告書ではないようだが。よもや君が、彼の足取りを掴めていないなどということはないだろう?」
せめてもの意趣返しに、めったに使わぬ嫌みを利かせてみれば、少女の眉間には覿面に影が落ちた。……直属預かりの部下となって早三年、外づらを取り繕わなくなったのはいい兆候なのだろうが、それにつけても、たまに怖い。
「……島内にはすでにいません。港で連絡船に乗ったらしいところまでは確認しました」
「まさか。密航でもしたというのか?」
「いえ、それが……お預かりしていた生活費を、根こそぎくすねていきやがったようでですね……」
沈痛な沈黙が落ちた。両者、決して視線を合わせない。
対象の保護を任せるにあたって、必要最低限の経費は教団負担で支給されていた。通常は月一度、年末だけは祭事の関係上、二ヶ月分が一度に支払われる。まさに養育者の懐が最も潤沢なタイミングを狙っての犯行だったわけだ。やってくれたものである。
「……君のご両親は、金銭が絡むと瞬く間に信用の置けない人物になるな、タトリン響長」
今度は皮肉も嫌みもなく、ひたすらに率直な感想であった。
アニス・タトリンは唇を引き結び、気まずげにそっぽを向いている。三年の経過を感じさせない幼さだ。思うように背も伸びず、骨格も肉付きも年頃にしては頼りない。黒髪を清楚に結い揃えたおさげが、あまりに似合っていない。
ようやく搾り出されたため息ばかりは、大人びていた。
「……申し訳ありません」
心を込めた謝罪というより、意気消沈した反動で頭が下がったようにしか見えない。
トリトハイムは聞こえよがしに肩から息を吐き出すにとどめ、深くは追求しないことにした。彼女と、彼女の両親が『大人』になるには、まだまだ時間と根気が必要だ。
「この件に関しては私が預かる。それで良いのだね?」
「……はい」
「ふむ。責任権利云々という話はともかく、何はなくとも安否と所在を確認しなくてはな。彼の行き先に心当たりは?」
「ケセドニアで間違いありません」
間髪入れずにアニスが断言した。
同時に卓上に提出されたのは、一枚の絵葉書だった。既製品を無理やり紙鳥に仕立てた痕跡とわかる、拙い折り目が残っている。
裏面のイラストは、砂漠の中に佇む都市を遠望する構図だ。表書きには子供らしい大味な筆致でタトリン一家の名が列挙され、簡単な――本当に短絡な文章が添えられている。
曰く……
『やっほー。フロリンだよん☆ みんな元気〜?
きょうだんぐらしはあきちゃったから、これからアチコチ旅してみるね。しばらくは帰る気ないから、さがさないほうがいいと思うなー。
あっ、たなにしまってあったお金はだいじに使いきっちゃったから、心配しないでね!
気がむいたらまたれんらくするかも! ちゃお〜☆』
「……」
「……」
「……処分は、後ほどに、な」
「……ハイ」
かくて紙一枚の爆撃にて、三年間の綱渡りに疲弊しきっていたトリトハイムの精神力にある意味痛恨の駄目押しを加えた人物の名は、果たしてどこの誰が付けたものであったか〈無垢なる者〉。
導師イオンの尊き写し身の行方は杳として知れない……ということにしてしまおう、という密約が言外に成立した瞬間であった。