彗クロ 3
3-2
話は少し遡る。
レグルが意識を取り戻したのは、ほんの数十分前のことだ。いつの間に移動させられたのか、またしてもどこぞの幌馬車の中だった。
夢か現か、黒い花畑で得体の知れない塔を見上げたのが、レグルの認識ではつい先ほど。ところが肉体に累積している倦怠感の故を問えば、丸一日以上眠りこけていたのだと知らされて面食らった。ルークの言うことだから疑う余地もなかったが、思わず外の景色を確かめてしまった。前方に広大な砂漠を背に負う都市を目にしてしまっては、いよいよ己の不覚を認めないわけにはいかなかった。
世界最大の商業都市、ケセドニア。マルクトとキムラスカの国境線に存在し、あらゆる事物と人の流れを把握することによって、いずれの国にもおもねることなき完全中立を実現させている、商人の街だ。
最寄りのエンゲーブからは、三馬力で飛ばしても半日以上はかかる。ただいま車を引く馬は貧相な牝馬が二頭。太陽は一番最後の記憶よりずいぶん東に低い。……これぐらいの単純計算は、レグルにもできる。
かくして記憶にない丸一日間の行動を根掘り葉掘り問いただしたところ、要点をまとめるに、「進展なし」との結論が返ってきた。
黒い塔の現出と同時に気を失ったレグルを担いで、ルークとアゲイトの二人は一旦フーブラス川まで退避し、野宿で一夜をやり過ごした。明朝さらに北上してセントビナーに到着、アゲイトが街の様子を窺ったが、行方不明の子供の噂は聞いても、無事に帰ってきたという話は一切なかったのだという。
そこでどうしてさらに北上してエンゲーブの様子を確かめなかったのかという不満は、なんとか呑み込んだ。当初はルグニカに戻ったら一旦森に帰ろうとかなり悠長に考えていたレグルだったが、ルークだけならともかく、よそ者の薬売りまでチーグルの生活圏に連れ込むというのはさすがに危機感がなさすぎる。
かといって、意識のないレグルを連れまわすためには、ルークの先見のとおり、第三者である大人の助力が不可欠だったわけで……なんぞ事が起これば難癖つけてすぐにでも解雇してやろうと目論んでいたレグルも、とうとうアゲイトの同道を認めざるをえなくなったのだった。
ともあれ、セントビナーから半日と一晩をかけてやってきたのがケセドニア。次なる目的地としてここを選択したのはルークだという。
「……レプリカ捕獲に入れ込んでいたのはアッシュだから、キムラスカに向かうべき……だと思う。おびき出すつもりなら王都……何かの手違いで自治区送りにされたとしても、マルクト側は考えにくいから……」
「なんで?」
「顔見知りがいるから……。レプリカを保護した時の定石らしい……よ。レプリカが被験者や被験者の知り合いと同じ国内にいると、いろいろ面倒くさいことになるから、自治区に割り振られる時にそういうのがかなり考慮される……んだって。被験者が誰かわからなくても、とりあえずは発見された地区外や国外に一旦身柄を移される……って」
言われてみれば、レグルがマルクト軍に発見された時も、わざわざ国境を越えさせられたのだった。てっきり被験者の都合に振り回されただけだと思っていたのだが(実際高確率でそうだったのだろうが)、一応は理に適った処置だったのかもしれない。
メティの場合はなおさら、国内に置いておくとは考えにくい。となれば、大雑把にキムラスカかダアトの二択となる。路銀や効率などもろもろの現実を斟酌すると、まずは陸路でキムラスカに向かうのが、確かに妥当な選択だ。
目的地に近づき、減速を始めた車内で、レグルとルークは地図を挟んで額を寄せ合った。
「ケセドニアから南西へ砂漠を越えると首都のバチカル、さらに西に行くと大規模な自治区がある……らしい。当面は、これが順路でいいと思う」
「砂漠越えかよ……」
ルークが丁寧になぞる針路には、避けようもなく広大な砂漠の略図がでんと横たわっている。年々規模と気温の記録を更新し続けるザオ砂漠は、世界一の不毛の土地だ。交通の障害以外の何者でもない。
「砂漠の交通も、今はずいぶん整備されてるよ。まあ、労力と危険を考えると、連絡船の運賃を天秤にかけても痛し痒しってとこだけどね」
前のほうで馭者に声をかけていたアゲイトが、不意に振り返って言った。床にくつろがせた足の長さときたら嫌みなほどだ。レグルは半眼になって睨みやった。
「『薬箱』の財力じゃ、連絡船の切符も買えないってか?」
「あはは。例の報酬を上乗せしてもらえれば捻出できなくもないけどね。あんまりお勧めしない」
「なんで」
「目をつけられるよ。表裏関わらず色んな人間にね。それに」
アゲイトはふと背後の馭者を窺うと、軽く身を乗り出して声をひそめた。
「レプリカの血液に市場価値が立証されたらまずい。人類はいまだ第七音素を渇望しているんだ。……レプリカの保護政策を推進するにあたって、お偉方が世間に伏せた情報がいくつかある。レプリカの身体組成についての知識も、その一つだよ」
レプリカの肉体は高濃度の第七音素の塊。それが一般に知れ渡れば、悪人はレプリカに群がり、善人もまた悪党に成り下がるだろう。幼い種族であるレプリカは、海千山千の先住民の格好の餌食だ。
内心は苦いものを噛み締めつつ、レグルはあえて皮肉っぽく口の端をつり上げた。
「裏を返せば、この血をダシにレプリカが世界の権力構造をひっくり返すのもアリだってことだな」
「その発想を僕の前で披露しちゃった時点で、実現性は極めてゼロだけどねえ」
「ケッ」
「まあ、レプリカとオリジナルの関係性が劇的に変化する可能性は否定しない。ただ現実として、割を食うのは確実にレプリカのほうだろうね。家畜みたいに柵で囲まれるのは嫌だろう?」
「今だってそう変わんねーっつの」
「同じ家畜でも、羊とブウサギってだいぶ違うよね?」
「……えぐいなテメェ」
「人間のやることだからね。君たちだって、オリジナルに利用価値ができて、実行できるだけのちからと機会があれば、躊躇しないだろ?」
「……フン。……んで、そのクソッタレなオリジナルさまは、どーゆーつもりで説教タレてくださってるワケ」
「ああそれはね」
アゲイトは満面に笑んだ。無駄な爽やかさが胡散臭さの上塗りでしかない。
「他の商人にバレちゃったら、僕が独占できないじゃない」
レグルはルークが綺麗に丸めた地図を横からひったくって、アゲイトの顔面めがけて思いっきり投げつけた。
街を入ってほどなく、馭者の気だるげな案内とともに馬車は停車した。
幌を開けた途端に強烈な日射が視覚を攻撃してきた。空からの直射と地面からの反射で、炙り焼きにでもされるような気分だ。極端に湿気が少なく、空気が埃っぽい。
地面に足をつける前からうんざり気味に、レグルはのろのろと停車場に降車した。
……ふと、吸いつけられるように視線が上空へ向いた。過剰な日光のせいか、青空がくすんで見える。
南……ここから南東だ。パダン平原の空は。
さすがに遠すぎるか。あの巨大な塔は、街並みの隙間からは見ることはできない。
黒く聳え立つ、第一音素の音叉。結局あれがなんだったのか、謎のままだ。今にしてみれば夢か幻覚だったのかとさえ思える。