彗クロ 3
カーラはひとり得心いったようにうなずくと、レグルの横をすり抜け、ローブたちに向けて踏み出した。レグルを背後に置く、あたかも背に庇うような形で、静かに足を止める。
「さっきの質問は撤回するわ。必要ないものね」
「おまっ、何言って――」
「代わりに訊いておきたいのだけれど、今回のようなイレギュラーな『客人』があった場合、どのような措置をとるのが適切なのかしら?」
「……我等を介さぬ客は存在しない。存在してはならぬ」
淡々と、ローブが断定した。
心臓が怖気にやられて収縮を再開した。ひどく状況が見えづらい。なんのために、どうやって、何に向けて。……誰のために、誰に向けて?
レグルがここまで手を引いて必死に連れてきたのは、そういえば、『誰』なのか。
カーラがレグルを振り返る。口角がほんの少しだけ緩んで、微かな笑みのように見える。絵画の中の聖女のような……
「大丈夫よ、レグル。いずれ、すべての不安はなくなるのだから」
「――えっ」
困惑が意味をなさないつぶやきとなって喉を通過した時にはもう、レグルの体は宙に浮いていた。
覚えのありすぎる墜落感。あっという間に遠ざかっていくカーラは、レグルを突き飛ばしたその手をたおやかに振っている。淡い色の髪が音素の光を受けて、やけに荘厳に、黄金色に輝いて見えた。
腹を立てる暇さえなく、レグルの意識は淡黄色の光に没した。
光の中は、闇だった。
闇の中は、やはり嵐だ。
豪華絢爛たる星々がさんざめく。世界は一時たりとて静寂というものを知らない。
ひときわ明るく、ひときわ煩く、銀の輝きが燦然たる光の尾を引いていく。
重く痛いほどの鐘の音を、何度も何度も響かせる。
音の輪が囁く。イェソーデ。
イェソーデ。
イェソーデ。
いずれ破滅は廻り来たらぬ。
***
「気に入らないわ。本当に気に入らない。
何がって? ……何もかもが、と言うべきかしらね。もともとこの世界には私の意に沿う事象なんてものは、ほとんど存在しないのだけれど。
ええ気にしないで。貴方たちはたまたま、私にとってとても都合の良い、実に稀有な存在だもの。
あら、少し下世話な言い方だったかしら? でも、自他の関係性の大本なんて、つきつめてみればそんなものよ。
血を分けた家族も、幼少期からの親友も、どんなに睦まじい夫婦だって、互いの利害と感情が対立すればあっけなく破綻まっしぐら。脆いものでしょう?
だから、逐一目的を提示して相互の利益を一致させる作業というのは、きわめて重要なのよ。大人数の共同体を成立させ続けるなら、なおさらね。
それはもう面倒なものよ。性別や年代が違うだけでも考え方の指向に摩擦があるのに、さらに国をまたげば民俗も信仰も違うわけで、そもそも『内』と『外』という概念事態が対立構造の根幹とさえ言えて、つまるところ複数の共同体が世に存在するという事実それ自体が「わかりあえない」他者が厳然と存在する証左でもあるわけだし……ごめんなさい、ちょっと何を言いたいのか迷子になったわ。
ええと、そう。要はね、自分じゃない他人なんて、大抵敵だと思っときゃいいのよ。敵と敵とが折り合いをつけてなんとか仲良し「っぽく」やっていく、っていうのが根本的な人間関係の概要だと、私は思ってるわよ。堅物どもは暴論だなんだってうるさいでしょうけど。男って、万事において夢見すぎなのよねぇ。
――あーそれにしても、本ッ当ッにッ、気に入らないわ!
なーにが「警鐘を鳴らすため」よ、あの男。厄災には厄災らしく不吉らしい命名を? 安直過ぎるわ。わかりやすい名前なんかつけたら考えなしの馬鹿どもが考えることをもっとサボるでしょうが。街中を闊歩する悪党は親切に名札なんてつけてないわよ。そもそも私たちがそこまでしてやる義理なんてないっていうのよ。今だってすでに過保護なくらいなのに。
第一……あいつが私以外の有象無象に心を砕いているなんて事象自体、激しく気に入らないったら!
よし決めた! こうなったらとっておきに縁起のいい名前を考えてやるわ! あいつが出払ってる隙に議会に通してやるんだから……!
ねえねえ、何かいい案ない? 外(と)つ天(あめ)よりの使者とはいっても、形質的にはあなたの眷属も同然でしょう? 素敵な意見が聴きたいわ。
ねえ? 素敵な素敵な、大地の王様――」
***
にわかに増した外気温に、意識はまどろみの中からじわじわと締め出された。肉体から乖離する心地よさに後ろ髪を引かれながらも、一度気づいてしまった不快感には抗えず、観念して薄目を開ける。
「あ、起きた」
間の抜けたような声へゆるりと首をめぐらせると、フローリアンの暢気な顔とルークの無表情が並んで覗き込んでいた。
埃っぽい視界は、奇妙に明るい。縦坑に満ちていた神秘の光彩ではなく、ひどくありふれていて、見慣れきった、何の変哲もない自然光。
地下なのに、太陽が見える。
まだ瞼の重いまま呆然と上体を起こして、レグルは左手で後頭部をがしがし掻いた。
「……どうなってんだ」
「それはこっちのセリフだよ。いきなし、ドカーンバコーンガリガリー、ってすっごい音して天井が抜けちゃったんだもん! ガレキやら砂やらしこたま降ってきてめっちゃ怖かったんだから。なんとか生き埋めにはならないですんだけど、ホウラク?ってのが収まったらいつのまにか『あんなの』生えてるし、レグルこんなとこで寝てるし。もーワケわかんない。いったい下でナニがあったのさ?」
「何が……って」
巡りの悪い頭が、それでもやっと一廻りして、肩口に残る痺れのような違和感に思い至る。
……あの出会いは。あの少女は。なんだったのか。
もはや実感も遥か彼方に隔たれて、本当に現実に起きたことなのか、それすら危うい。ひょっとしたら、歩廊から落下した時点からここまで、何もかも性質の悪い夢だったのではないか。
そう思い込むには、指が硬直するほど必死に握り締めたままの抜き身の存在が生々しすぎ、突き飛ばされた感触がちょっと鮮明すぎる。
レグルは途方に暮れて頭上を仰ぎ、情けなくぼやいた。
「それはおれが聞きてーよ……」
――嵐の気配もすっかり消え去った晴天には、レグルからわずか数歩離れた距離にある砂の山を起点に、遺跡の天井を豪快に突き破ったライムイエローの巨大音叉が、天を突けとばかりに屹立していた……
(四章につづく)