野ばらの君・その後
「のばらの君」あらすじ
幼くして母女王に先立たれた王女エドワードと王子アルフォンス。王太子であるアルフォンスが謎の奇病で眠り続けているため、エドワードは王子として振舞っていた。しかし、戴冠式を前に、様々なことに対して貴族同士の争いは激しさを極め、王太子といえども力はないに等しかった。権力はブラッドレイ公爵一派が握っていたのである。
女王の葬儀と入れ替わりにそんな王宮を訪れたのはマスタング卿で、当初こそ疑ったものの、エドワード王女の陣営は彼を受け入れていく。そして、アルフォンスが目覚めた時、エドワードは王太子としてではなく、ひとりの少女としてロイが治めるイーストシティへ行くことを決めたのだった。
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既に制圧したとはいえ、元は違う国を含む領土だ。どんなに上手く治めても、小競り合いは絶えない。あまり大規模な反乱でもない限り、領主自ら出向くことはほぼないが、それでも馬上にある方が格段に多いロイだった。
しかし、エドワードがイーストシティに来てからというもの、彼は極力城を離れないようになった。姫を迎えて主が不在というわけにはいかない。無論、彼自身がそうしたかったというのが、一番大きな理由だったのだろうけれど。
遠乗りに出たいというエドワードを、最初は自分の鞍に乗せるつもりでいたロイだったが、厩舎へ赴けば、既に彼女は乗馬できる状態になっていた。さすがに瞬きすれば、得意げに笑い、乗馬も剣も成績よかったんだ、と明かした。考えてみれば非の打ち所のない王子を演じていたわけだから、出来て当然といえばそうだったのかもしれない。
「乗りたい子がいるんだ」
ロイの腕を引っ張るようにして、エドワードは声を弾ませる。頬は正しくばら色に輝いている。
「ほう。どの子だ?」
望むなら馬の一頭や二頭、何ほどのこともない。ロイは本当にそう思いながら、目を細め姫の後をついていく。
「あの子!」
厩舎には何頭もの馬がいる。そのうち幾たりかはロイの馬で、戦場ではいずれ劣らぬ優れた働きをする馬である。当然そういった馬達は最上級であるから、ロイはそのあたりで見当をつけていた。または、それに近い、ロイが乗るのには適さないが、客人が来た折に見せるような見た目のよい馬あたりで考えていたのだ。
しかし、エドワードはやはり規格外だったといえよう。
「…あの馬かい?」
ロイは、細い指先が示す先を見て、困惑を覚えた。
「うん!」
にこにこと思い切りよく頷くエドワードに、ロイは暫し口ごもり、…わかった、と頷くしかなかった。
「…のばらはこういう感じが…好きなのか?」
躊躇いがちに、それでも彼が尋ねずにいられなかったのは、エドワードが駆け寄った馬があまりに予想外だったからである。
悪い馬では、けしてない。どころか、むしろ素晴らしい馬だ。素晴らしい馬、なのだが。全体的に赤い、赤銅色の毛並み。栗毛などというのではない、むしろ、赤。異様な程に光を弾き、厩舎でも異彩を放っている。体躯は大柄という程ではないが、よく引き締まって綺麗に筋肉がついている。
東の方、砂漠の向こう、一日に三千里を駆けるという馬の血を引く馬は、献上品としてここへやってきた。
しかしこれが気難しく、なかなか人を近寄らせない。一応ロイには鞍を載せることを許してくれたものの、渋々走るという態度だった。
それに、姫君が乗りたいという。とりあえず介助は絶対だ、とロイは目眩を抑えながら心に誓う。
ちらりと見れば、女性が好みそうな葦毛や、気性の優しそうな栗毛が視界に入る。あの辺だと思ったんだがなあ、とは口に出さないロイの本音だった。
…しかし。予想に反して、赤い馬はエドワードを嫌がらなかった。
「驚いたな」
思わず零れた本音に、なにが? と小首を捻る姿に苦笑する。
「乗りこなしたから」
「…信じてなかったな。馬術は得意だったっていうの」
「そういうことじゃないが、…この馬はなかなか気難しいんだよ」
肩を竦めて明かせば、馬上でエドワードは瞬き。ついで、不思議そうに首を傾げた。
「そう?」
「ああ。私には、気を許してくれなかったな」
「えっ? ロイに?」
姫君は目を丸くした。彼女にとって、どうやらそれは意外なことだったらしい。
「だって、この子、近づいても全然暴れたりとかしなかったよ?」
「気に入ったんだな、エドが」
そういってやれば、嬉しげに笑う。光が射す中で屈託なく、そうやって笑っている姿を見ると、返したくない、という思いが胸の奥から湧いてくる。
十五までの約束で、エドワードは城からイーストシティへやってきた。もうかつての、何も持たない少年ではなく、権力も、富も、名声さえも持っているロイには、彼女を守る事などたやすい。だからさらってしまおうか、と、考えてしまう。
それは恋かといわれると、そうではないような気もする。だがでは庇護欲かといわれると、それだけでもない。
だが、ただひとつ確かなことがあるとすれば、陰謀と駆け引き、欲望と嫉妬が複雑に絡み合う都の奥津城に彼女を置いておくのはあまりにも忍びないという思いがロイを動かしているということだった。野に咲く花は野に咲くから美しい。エドワードが大輪の花であることは疑うべくもないが、しかし、それは温室にあって輝くものというよりも、野にあって、風に吹かれてこそ美しい、そういう花であるようにロイには思えた。のびやかな姿を見れば、枷にはめる人生を送らせたくないと思うのだ。
「ロイ?」
しばらくじっと見つめすぎていたらしい。少女は、怪訝そうな顔で小首を捻った。
「なんでもない。…エドがよければ、その子は姫に進呈しよう」
「えっ、いいの?」
馬の話に摩り替えても、エドワードは特に気づいた様子もないらしく、譲ってくれるという提案に目を輝かせた。
「ああ。馬もその方が喜ぶだろうし。…その子は、カーディナルというんだ」
「…枢機(カーディ)卿(ナル)?」
怪訝そうに繰り返すのには、苦笑を返す。
「私にちなんでだろう。あとは、毛並みかな」
「赤いから?」
「そう。赤は枢機卿の色だから」
「ふーん」
エドワードは目を細め、カーディナル、と繰り返す。馬が答えるように瞼を動かした。やはり、馬の方でも少女を気に入ったものらしい。
動物と人間にも相性というものがある。当然、良ければ良いほど、関係は良好なものになる。
どうやらこの城の枢機卿は皆彼女が好きらしい。
ロイはそう思い、苦笑した。勿論、この馬と自分のことである。
基本的に体を動かすことの好きなエドワードだったが、向学心も旺盛だったから、イーストシティに居を構える老博士の許を訪れて議論を交わすのも楽しみにしていた。博士の方でも姫の訪れを心待ちにしており、まるで祖父と孫のような様子である。見ている方も微笑ましい気持ちになるような。
「それでね、今日は数学でこういうの習った」
得意げに教本を見せるのに、ロイは目を細める。治世にはあまり役に立たない純粋な高等数学は、貴婦人になるのならもっと必要ない。どころか先日は新しい学問である化学にも興味を示していた。
「姫は教授になるのかい」
冗談のように尋ねれば、少女は目を丸くした後困ったように眉根を寄せた。