野ばらの君・その後
「…学校って、面白いのかな」
ぼそりと呟いて、彼女はしゅんと下を向いた。そっと見やれば膝の上で手を握っている。エドワードはとても賢い。自分にその自由が許されていないことをよく理解している。
「先生が、話すんだ。エドくらいの子も、皆で勉強するんだって…」
「行ってみたい?」
何気なく尋ねれば、エドワードは弾かれたように顔を上げた。その幼い顔には「信じられない」と書いてある。
だがロイは冗談にしてしまわず、ただ穏やかに、優しく見つめていた。何でも許すと言ってくれているように、エドワードには見えた。
「…無理だよ。約束は、三年だもん…」
「私は、行きたいか、と聞いたよ。約束のことはとりあえず忘れなさい」
「…行きたい、もっといろんなこと知りたい、もっと、色んな人と話してみたい、先生の所にいるシンの人とか、他の国の人とか、えっと…」
ロイは椅子を立ち、エドワードが腰かける長椅子の傍に膝をついた。
「わかった」
「…え、だって約束、」
少女は目を丸くした。そんな彼女に、ロイは目を細め、ほっそりとした白い手を取った。
「ひとつだけ方法がある」
「え?」
「ここに残りたいというんだ。君が。そうすれば、セントラルは無理だが、この街の学校に通うことも、もし君が望むなら仕事をすることもできる」
「ここに残りたい、って」
「私が言ったのでは君の弟やお堅い君の側近が納得しないからね」
「…ここに、…ロイの所に?」
少女は小首を傾げた。
「そう。…私の奥さんとして」
「…………、え、…お嫁さん?」
今度はエドワードは目を丸くする。ロイはくすくす笑いながら、あくまでも冗談のように繰り返した。
「そう。眠り姫も王子代理も勿論王女も廃業して、私の花嫁なんてどうかな」
エドワードは絶句して、けれどもその金色の瞳がよく動くもので、彼女が一所懸命ロイの申し出を理解しようとしていることはわかった。
「…ロイといたら、…オレは自由なの?」
「さあ。君の考える自由がどういうものかによると思うが」
しばらく彼女は考えていたが、やがて顔を上げ、ロイの手を握り返した。ロイは自分の手を握り返す小さな手がわずかに震えているのに気づいたけれども、知らないふりをした。
「もっとも、私は、君に出来るだけ自由でいてほしいとは思うけどね」
そしてただそっと、それだけを付け加えれば、エドワードはきゅうっと眉を寄せた。それからぐっとロイの手を引き寄せて、胸に抱きしめてくれる。
「…そうやって、…ずっと、守ってくれるんだ」
彼女の賢さは、ロイの言葉にただ甘えることを困難にさせた。彼女はロイがなぜそう言い出したか、そして彼が何を背負うことになるのか、そこまでもう理解していたのだ。
けれど年若い彼女に何もかもが理解できるわけではなかった。ロイにだって、エドワードがそこまでわかっていることはわかっていたのだ。
「私にもいい話なんだ。負担に思うことは何もない。どころか、君は騙されたと怒ってもいいんだが?」
「え?」
意外そうに目を瞠る少女の額を、空いた片手でそっと撫でる。前髪はさらりと指から逃げた。
「十四も若い花嫁をもらって。そういうのを、世の中では果報者というんだ。知らなかっただろう?」
「………」
エドワードは呆気に取られた顔で言葉を失って、ただまじまじとロイを見返すことしか出来ない。
「悪い男に捕まったかわいそうな姫君。皆は君をそういうと思うが」
「…だって、ロイは悪くない、だっておれは面倒なばっかりだし…、全然女の子らしくもないし…ほんとはもっと、きれいな…む、…胸の大きなお姉さんとかの方が…た、たとえばマリア、みたいな…」
「胸が大きいのが好きなのは私の部下だ。背ばかり高い垂れ目のが特に。マリア? 誰だ、…ああ、あのよく吼える犬みたいな奴にまとわりつかれている?」
ロイはあっさり否定した上に、エドワードが挙げた名前に不思議そうな顔だ。…とうとうエドワードは目をつぶって、小さな小さな声で、恥ずかしそうに口にする。
「…もらって」
「ありがたく頂戴いたします」
抱きしめられた手に力をこめて、小柄な少女を抱き寄せ、ロイは神妙な態度でそう答えたのだった。
戦になるかもしれん、と実に真面目な顔で部下にこぼしたところ、付き合いの最も長い男だけが腕組みをして頷いた。
「俺があちらさんだったら戦もやぶさかではない心境だな。娘はやらん! ってなもんだ」
「おまえはどっちの味方なんだ、ヒューズ」
「決まってるだろう、うちの女神のような奥さんと天使のような娘の味方だ!」
「……」
「安心しろ、グレイシアはのばらちゃんの味方だ。ということは俺は大将の味方だ。よかったな」
「…それは、…ありがとうと言うべきか」
「おう、安心しとけ!」
――眠り病から覚めた後間もなく即位し、今では近隣でも名君と名高い少年王、アルフォンスは、イーストからの半ば予想していた知らせを受け取った時、笑顔のまま手紙を握りつぶした。後ろに控えていたホークアイ卿はといえば、軍備の確認をしてまいりますと何も言われないうちに王の執務室を大股に出て行った。
「…ロリコン枢機卿、死すべし…!」
憎しみのこもった声に続いた不気味な笑い声は執務室から流れ出し、近くを運悪く通りがかってしまった事務官や女官はひっと短い悲鳴を上げる羽目になった。
結論から言えば、戦は起こったが王都とイーストシティの間にではなく、イーストシティのさらに向こうとアメストリスの間に起こったため、国防のために出兵する枢機卿を王都が攻めるわけにもいかず、なしくずしにエドワードの東部への残留は決定してしまうことになった。約束の三年と、国防戦争の三年。十八歳の王女は誰から見ても美しく成長し、また、ロイがイーストシティを不在にした折に立派に城代を務め上げた実績も身につけてもいて、今さら都に王女ですと戻れる状況でもなかった。
「…姉さん」
かつて姉恋しさに病にまでかかった弟王、それさえなければ名君のアルフォンスは、結婚の知らせを三年前のように握りつぶしながら唸るように呼んで机に突っ伏した。さすがのホークアイ卿も咎めることはしない。
「…せめて東部へ行幸の予定を組みましょう。調整いたします」
「うん…」
城の中でも教会でもなく、広い公園の野ばらの前で、街の人々の祝福を受けて元王女は領主へ、枢機卿へと嫁いでいく。ずっと昔、彼女が幼い頃から彼女の騎士であり続けた男の許へ。