遠い雨
+++
懐かしい漆喰塗の塀の前でおじさんは立ち止まった。
瓦葺の門を見上げて、込み上げる感慨に身を浸す。ここを離れていた数週間の出来事が、おぼろな影絵のように次々脳裏に浮かんでは消えた。
「――……、」
意を決し、門をくぐって数歩進んだところでガラリと玄関の戸が開いた。
「マ夕゛オさんっ!」
裸足で飛び出して来た眼鏡の少年が息を切らせておじさんの前に立つ。
「帰って来てくれたんですねっ」
見上げる少年の目は潤み、声は震えて今にも泣き出さんばかりだった。こうしておじさんが戻ったということは、やはりあのトンチキ息子と折り合いがつかなかったのだ、そういうことは今の少年の頭からすっぽり抜け落ちていた。とにかく目の前の信じられない、……いやずっと信じて待っていたことが現実になった、それだけが全てだった。
「……シンちゃん」
少し遅れて姉が姿をみせた。おじさんは軽く会釈した。姉も小さく返した。
「マ夕゛オさんね、ウチの求人見て来てくれたのよ」
「求人……?」
少年が振り向いた。姉はくすりと肩を揺らした。
「屋根に上がったり庭木の手入れしたり、力仕事するのにやっぱり男手は必要でしょう?」
「――ぇ」
イヤそれは、姉上がいれば別に――、とはつい喉元まで出かかった言葉だが、少年はぐっと堪えて飲み込んだ。ついでに涙も引っ込んだ。涼しい顔に姉は続けた。
「それでね、求人票出しに寄場に行ったら、たまたま偶然マ夕゛オさんとばったり会って」
何かを思い出すように俯いて姉は笑った。
「?」
少年は首を傾げた。知らないのは少年だけで、おじさんには何もかもわかっていた。わかった上で、今まで逃げて、避けていたことに、覚悟を決めて姉の申し出を受けたのだ。
「今日はその面接に伺いました」
直立したおじさんが頭を下げた。
「ああ、だから半纏にネクタイなんですね」
合点が行った様子に少年が頷いた。
「……面接は合格です」
真面目な顔に姉が言った。「それでいいですよね? マ夕゛オさん」
「マ夕゛オさんっ!」
固唾を飲んで弟もおじさんの返事を待った。おじさんは髭面に深呼吸した。
「はい」
おじさんは頷いた。一歩足を引くと、姉弟に向かって深々と頭を下げた。「こちらで、お世話になります」
「マ夕゛オさんっ!」
おじさんが背も伸ばしきらないうちから、少年が半纏の肩に飛び付いた。少年の重みを受け止めて、おじさんはグラサンを白黒させ、痩せた脛によろめく足元を踏ん張った。
「……、」
そんな二人を見て、姉はそっと横を向くと熱い目頭を袂に押さえた。
おじさんが流しの居候でなく正式の家政夫として姉弟と屋敷で暮らし始めてしばらくが過ぎた。
昨夜遅くに雨が降ったらしいが、今朝はからっと晴れている。えくせるでこさえた予定表通りに、ヨシ今日は玄関廻りを徹底的に、おじさんが気合を入れて引き戸の桟を磨いていると、
「ぱーちーくんっ、あっそびっまショッ!」
表で元気な女の子の声がした。呼ばれた本人は中にいてまだ気付いていないらしい。奥にひと声かけて、おじさんは雑巾を持ったまま外に出てみた。
「ぱっつんっ?」
日傘を差して門の下でしゃがみ込んでいた少女が立ち上がった。近所では見かけない子だ、いったいどこの――、
「――君は」
おじさんはグラサン越しの目を見張った。
「?」
赤毛を二つおだんごに結った女の子が、不思議そうに首を傾げた。年はあの子と四つ五つ、
「……おじちゃん誰?」
立ち尽くすおじさんを見上げて、丸い菫色の瞳がくるりと揺れる。
「ゴメンかぐらちゃんっ」
眼鏡少年が草履を突っ掛け、急いで中から駆けてきた。
「かぐらちゃん、っていうのか……」
おじさんはしみじみ呟いた。
「――ねーねーぱっつん、」
少年の袖を引いて、少女が声を潜めた。「このおじちゃん、もしかしてアッチの方の少女シュミ?」
「かぐらちゃん!」
少年は慌てて大声を出した。少女が迷惑そうに耳を塞いだ。
「すっ、すみませんなんていうかこの子、すごくユニークな子で……」
おじさんの方を向いて少年がしどろもどろに弁解した。おじさんは半纏の背を丸めて頭を掻いた。
「いやいや、こっちの方こそじろじろ見たりして悪かったね」
「わかればイイあるヨ!」
おじさんの屈めた背を叩き、朗らかに少女が言った。少年は疲れたように項垂れた。お構いなしに少女は続けた。
「私はぜんぜんそのケないけどォ、まっ、ふぁざこんだったらぱっつん師匠がガチすからー」
「かぐらちゃん!」
堪らず少年が遮った、「ああっ、あっちにすこんぶボー山ほどあるからっ」
「まじアルかっ?!」
――おっじゃまっしやぁーーーっす!!!
少女はペタンコ靴の踵に手を掛け、一目散に玄関を駈け上がろうとした。
「!」
しまったっ上がり込まれて長居されて余計なことペラペラ語り倒されちゃかなわん、
「ちょっ、そとっ、外で待っててっ! 箱ごとすぐ持ってくるからっ」
少年は腕を広げて少女の行く手を遮った。
「えー」
少女があからさまに顔を歪めて不満を述べた。少年は咄嗟の馬鹿力で、首根っこ掴んだ少女の身体を有無を言わさず門の外まで引き摺っていった。
「すっ、すみません騒がしくて、」
少年はへこへこ頭を下げながらおじさんの前を通り過ぎ、草履を脱ぎ散らして奥へ駆けて行った。表に摘み出された少女は首に傘の柄を差さえ、右手と左手でひとりケンケンパをして遊んでいる。おじさんは半笑いに見守った。
すぐに段ボールを抱えて戻ってきた少年だが、玄関先で草履を引っ掛けるのに少々もたついた。
「ぱっつんまだー?」
ひとり遊びを中断して少女が声を張った。
「はぁーーーいっ!」
――今行くからっ、前のめりに縺れそうになりながら少年は敷居を跨いだ。
「じゃっ、じゃあちょっと出てきますっ、」
おじさんに告げると少年は門の外に待ちわびていた少女と連れ立って行った。
「――シンちゃん?」
少し遅れて姉が玄関に出てきた。
「あらマ夕゛オさん、今しがたシンちゃん見ませんでした?」
姉が訊ねた。バケツに浸した雑巾を固めに絞りながらおじさんは答えた。
「ああ、なんだかお友達と……」
「あらやだお遣い頼もうと思ったのに」
袂を押さえて姉が頬に手を当てた。
「私が行ってきましょうか、」
雑巾を畳みながらおじさんが申し出た。打ち消すように姉は手を振った。
「いいんです、別に急ぎじゃないですから」
――マ夕゛オさん続けてて下さい、引き返そうとした姉に、
「それじゃここが済んだらまた声かけますね」
おじさんが穏やかに言った。足袋を止めて姉が振り向いた。
「そうですか? だったらお願いしようかしら」
そっちがひと段落ついたらお茶でも入れますから、姉は笑顔に言い残すと奥に下がった。
姉を見送ると、おじさんは玄関掃除を再開した。開け放した戸口から差し込む明るい光と、吹き込んで来る気持ちのいい風が、おじさんのぴしっと糊の効いた、やっぱり少々猫背の半纏の肩を笑っているようにゆらゆら撫ぜる。
〓終〓
懐かしい漆喰塗の塀の前でおじさんは立ち止まった。
瓦葺の門を見上げて、込み上げる感慨に身を浸す。ここを離れていた数週間の出来事が、おぼろな影絵のように次々脳裏に浮かんでは消えた。
「――……、」
意を決し、門をくぐって数歩進んだところでガラリと玄関の戸が開いた。
「マ夕゛オさんっ!」
裸足で飛び出して来た眼鏡の少年が息を切らせておじさんの前に立つ。
「帰って来てくれたんですねっ」
見上げる少年の目は潤み、声は震えて今にも泣き出さんばかりだった。こうしておじさんが戻ったということは、やはりあのトンチキ息子と折り合いがつかなかったのだ、そういうことは今の少年の頭からすっぽり抜け落ちていた。とにかく目の前の信じられない、……いやずっと信じて待っていたことが現実になった、それだけが全てだった。
「……シンちゃん」
少し遅れて姉が姿をみせた。おじさんは軽く会釈した。姉も小さく返した。
「マ夕゛オさんね、ウチの求人見て来てくれたのよ」
「求人……?」
少年が振り向いた。姉はくすりと肩を揺らした。
「屋根に上がったり庭木の手入れしたり、力仕事するのにやっぱり男手は必要でしょう?」
「――ぇ」
イヤそれは、姉上がいれば別に――、とはつい喉元まで出かかった言葉だが、少年はぐっと堪えて飲み込んだ。ついでに涙も引っ込んだ。涼しい顔に姉は続けた。
「それでね、求人票出しに寄場に行ったら、たまたま偶然マ夕゛オさんとばったり会って」
何かを思い出すように俯いて姉は笑った。
「?」
少年は首を傾げた。知らないのは少年だけで、おじさんには何もかもわかっていた。わかった上で、今まで逃げて、避けていたことに、覚悟を決めて姉の申し出を受けたのだ。
「今日はその面接に伺いました」
直立したおじさんが頭を下げた。
「ああ、だから半纏にネクタイなんですね」
合点が行った様子に少年が頷いた。
「……面接は合格です」
真面目な顔に姉が言った。「それでいいですよね? マ夕゛オさん」
「マ夕゛オさんっ!」
固唾を飲んで弟もおじさんの返事を待った。おじさんは髭面に深呼吸した。
「はい」
おじさんは頷いた。一歩足を引くと、姉弟に向かって深々と頭を下げた。「こちらで、お世話になります」
「マ夕゛オさんっ!」
おじさんが背も伸ばしきらないうちから、少年が半纏の肩に飛び付いた。少年の重みを受け止めて、おじさんはグラサンを白黒させ、痩せた脛によろめく足元を踏ん張った。
「……、」
そんな二人を見て、姉はそっと横を向くと熱い目頭を袂に押さえた。
おじさんが流しの居候でなく正式の家政夫として姉弟と屋敷で暮らし始めてしばらくが過ぎた。
昨夜遅くに雨が降ったらしいが、今朝はからっと晴れている。えくせるでこさえた予定表通りに、ヨシ今日は玄関廻りを徹底的に、おじさんが気合を入れて引き戸の桟を磨いていると、
「ぱーちーくんっ、あっそびっまショッ!」
表で元気な女の子の声がした。呼ばれた本人は中にいてまだ気付いていないらしい。奥にひと声かけて、おじさんは雑巾を持ったまま外に出てみた。
「ぱっつんっ?」
日傘を差して門の下でしゃがみ込んでいた少女が立ち上がった。近所では見かけない子だ、いったいどこの――、
「――君は」
おじさんはグラサン越しの目を見張った。
「?」
赤毛を二つおだんごに結った女の子が、不思議そうに首を傾げた。年はあの子と四つ五つ、
「……おじちゃん誰?」
立ち尽くすおじさんを見上げて、丸い菫色の瞳がくるりと揺れる。
「ゴメンかぐらちゃんっ」
眼鏡少年が草履を突っ掛け、急いで中から駆けてきた。
「かぐらちゃん、っていうのか……」
おじさんはしみじみ呟いた。
「――ねーねーぱっつん、」
少年の袖を引いて、少女が声を潜めた。「このおじちゃん、もしかしてアッチの方の少女シュミ?」
「かぐらちゃん!」
少年は慌てて大声を出した。少女が迷惑そうに耳を塞いだ。
「すっ、すみませんなんていうかこの子、すごくユニークな子で……」
おじさんの方を向いて少年がしどろもどろに弁解した。おじさんは半纏の背を丸めて頭を掻いた。
「いやいや、こっちの方こそじろじろ見たりして悪かったね」
「わかればイイあるヨ!」
おじさんの屈めた背を叩き、朗らかに少女が言った。少年は疲れたように項垂れた。お構いなしに少女は続けた。
「私はぜんぜんそのケないけどォ、まっ、ふぁざこんだったらぱっつん師匠がガチすからー」
「かぐらちゃん!」
堪らず少年が遮った、「ああっ、あっちにすこんぶボー山ほどあるからっ」
「まじアルかっ?!」
――おっじゃまっしやぁーーーっす!!!
少女はペタンコ靴の踵に手を掛け、一目散に玄関を駈け上がろうとした。
「!」
しまったっ上がり込まれて長居されて余計なことペラペラ語り倒されちゃかなわん、
「ちょっ、そとっ、外で待っててっ! 箱ごとすぐ持ってくるからっ」
少年は腕を広げて少女の行く手を遮った。
「えー」
少女があからさまに顔を歪めて不満を述べた。少年は咄嗟の馬鹿力で、首根っこ掴んだ少女の身体を有無を言わさず門の外まで引き摺っていった。
「すっ、すみません騒がしくて、」
少年はへこへこ頭を下げながらおじさんの前を通り過ぎ、草履を脱ぎ散らして奥へ駆けて行った。表に摘み出された少女は首に傘の柄を差さえ、右手と左手でひとりケンケンパをして遊んでいる。おじさんは半笑いに見守った。
すぐに段ボールを抱えて戻ってきた少年だが、玄関先で草履を引っ掛けるのに少々もたついた。
「ぱっつんまだー?」
ひとり遊びを中断して少女が声を張った。
「はぁーーーいっ!」
――今行くからっ、前のめりに縺れそうになりながら少年は敷居を跨いだ。
「じゃっ、じゃあちょっと出てきますっ、」
おじさんに告げると少年は門の外に待ちわびていた少女と連れ立って行った。
「――シンちゃん?」
少し遅れて姉が玄関に出てきた。
「あらマ夕゛オさん、今しがたシンちゃん見ませんでした?」
姉が訊ねた。バケツに浸した雑巾を固めに絞りながらおじさんは答えた。
「ああ、なんだかお友達と……」
「あらやだお遣い頼もうと思ったのに」
袂を押さえて姉が頬に手を当てた。
「私が行ってきましょうか、」
雑巾を畳みながらおじさんが申し出た。打ち消すように姉は手を振った。
「いいんです、別に急ぎじゃないですから」
――マ夕゛オさん続けてて下さい、引き返そうとした姉に、
「それじゃここが済んだらまた声かけますね」
おじさんが穏やかに言った。足袋を止めて姉が振り向いた。
「そうですか? だったらお願いしようかしら」
そっちがひと段落ついたらお茶でも入れますから、姉は笑顔に言い残すと奥に下がった。
姉を見送ると、おじさんは玄関掃除を再開した。開け放した戸口から差し込む明るい光と、吹き込んで来る気持ちのいい風が、おじさんのぴしっと糊の効いた、やっぱり少々猫背の半纏の肩を笑っているようにゆらゆら撫ぜる。
〓終〓