遠い雨
行き先も知らされぬまま、少年に手を引かれて進む道の人通りは見る間にまばらになり、やがてうらぶれた場末の一角に出た。
「――、」
おじさんはそのとき、背中にぞっと寒気を覚えた。本能的な退避衝動だった。
「見なよおじさん、天然の迷宮脱出アクティビティだよ」
傘の下からにこやかに少年が顎で示す先、片端からスプレーの落書きに埋もれたサイケデリック迷彩の街全体に澱んだ空気と殺気とが充満している。
「四つ角から次々飛び出してくるモンスターを残らず狩って、運河の道までこの路地を突っ切るのさ」
少年の口角がニィと歪に持ち上がった。おじさんは息を飲んだ。それから後のことは、ぶっちゃけところどころ記憶が途切れて曖昧だ。
空を飛ぶようなものすごいスピードに引き回され、ときどきグラサンやら髭面やらの間近を掠めて、阿鼻叫喚の形相の人型めいたものが後ろに流れて行った。
「……おじさん面白かった?」
薄暗く入り組んだ小路を抜け、川沿いの大通りに出たところで、けろりとした顔に少年が訊ねた。
「アレだ、こーゆーの吊り橋効果って言うんじゃなかったっけ?」
カラカラ笑って少年が言った。
「……私は心臓破れそうだがね、」
余計丸くなった猫背に、ゼェゼェ息をついておじさんは答えた。「君の方は汗ひとつかいてないじゃないか」
「――ああ、」
少年は手にした傘の柄でさらりと赤毛の前髪を梳いた。もう片方の手は道中ずっとおじさんを掴んでいたから、実質使ったのは足技のみ、それでこの余裕の表情なのだから、全身全霊本意気出された日にはどうなることやら、おじさんは身震いした。
「……運動したら腹減ったな、」
少年は傘を上げて辺りを見回した。「今日はあそこにしようおじさん」
無邪気な笑顔に少年が言った。
ここでもメニュー全品、それはそれは清々しいくらいに少年はよく食った。作り笑いの店主の揉み手と怯えたような低姿勢も同じだった。テーブルにお茶だけもらっておじさんは考え込んだ。
「どーする父さん、次は映画でも見る?」
食後のお子様でざーとせっとを掻き込みながらすっかりご機嫌の様子に少年が言った。――俺ね香港のわーるが好きなんだよ、何回見てもいっつも途中で寝ちゃうんだけどさっ、それはそれで何度でも同じモン楽しめておトクさ、はしゃぐ少年をよそに、
「ウン、じゃあ君はその映画見て帰りなさい、父さんちょっと急用思い出したから」
おじさんは話半分、半纏の縫い目という縫い目から掻き集めた最終手段の虎の子の小銭を、――少ないですけど今日の分です取っといて下さい、驚いている店主に渡して店を出た。
「……ちょっ、どういうことだよ何さ父さんのバカ!」
番傘を広げて追い掛けてきた少年が往来で喚いた。「父さんいっつもそうなんだ、結局仕事仕事って、俺より仕事が大事なんだ!」
――わぁぁん父さんなんかまっどさいえんてぃすとの手にかかって全身段ボールマシンに改造されちゃえばいいんだーーーっっっ!!! 少年はベタな泣き真似をしながら駅前のシネコン目掛けて走り去った。
「……。」
おじさんは息をついた。頭を振って、今しがた出てきた店に戻る。しかしまたすぐ暖簾をくぐって表に出てくると、どこへやら足早に姿を消した。
その日おじさんが塒に帰って来たのはだいぶ遅くのことだった。
先に戻った少年は夕飯を自棄食いしてフテ寝していた。映画館でも結果的に昼寝していたのでなかなか眠くならない。苛立ちに尖らせている肩におじさんが話しかけた。
「今日は昨日の分の仕事で追っつかなかったから、明日また昼間のあの店に行こう」
「は?」
――何の話さ、肩越しに振り向いて少年が眉を顰めた。おじさんは少しやつれたように見える髭面を緩めた。
「せめて食べた分だけでも働いて返すんだよ」
「……」
赤毛の下の少年の表情がみるみる暗く歪んだ。
「やりたきゃおじさん一人でやんなよ、」
バカバカしい、鼻で笑って少年は背を向けた。
……ヘンなおっさんだとは思っていたが、正真正銘アホおやじだったとはね、正直やっとれませんわと、そのうちガチに腹を立てているのもバカらしくなって、ゲラゲラ笑い出したい気分になって、目を閉じてどっちもガマンしていたら、いつの間にか飽きて疲れて眠ってしまった。
おじさんの方は、黙って天上を見上げたまま、その日はなかなか寝付けずにいるようだった。
少年の底無し胃袋を満たすため、おじさんは日替わりに少年が食い散らすあちこちの食堂で下働きを始めた。バイト代はすべて少年の勘定に回してもらい、自分の稼ぎは一銭もなかった。いくら事情が事情でもタダ働きはあんまりだからと、見かねて賄いを付けてくれるところもあったから、それでなんとか日々食いつないだ。
おじさんが朝早く塒を出て行くことも、毎晩帰りが遅いことも、理由を知ってなお少年は飄々としていた。不機嫌を露わにした最初のあの日以来、感謝も非難も口にすることはなかったし、それまでの自分の生き方を改めることもしなかった。
それでもいいとおじさんは思っていた。自分は自分にできることを精一杯やるだけだ、汗水垂らして大海に砂粒を運び続けて、細波一つ起こせない、まるで無意味に思えても、一瞬先のことなんてつまるところ誰にもわかりはしないのだ。
「……ただいま、」
その日もおじさんの帰りは夜半を過ぎていた。いつも通りに静かな暗い部屋で、先に寝ているのだと思っていた少年の寝床は空だった。
おじさんは胸騒ぎがした。駆け寄った少年の寝袋にチラシが一枚差してあった。急いで窓辺に移動して、月明かりに裏面を広げてみる。いかにも子供っぽい、赤毛を揺らした少年の面差しと同じにどこか笑っているような文字だった。
『家族ごっこもアキたからリアルの妹探しに行くよ。じゃあね☆』
「……。」
あの子妹なんかいたのか、チラシを手におじさんは呟いた。引き締めた髭面の口元が知らず綻んで、彼が天涯孤独ではなかった、それだけでもとてつもなく大きな救いに思えた。
同時に自分は、自分が信じて運び続けた砂粒はほんの僅かでもあの子の心の隙を埋めてやることができたのか、所詮他人の関わりじゃとんだ無駄骨だったと諦めるのが賢い道か、青白い月明かりの窓辺に立ち尽くしたおじさんは、けれどそれでも、グラサンの縁を濡らして止めどなく溢れる熱い涙を堪える術を持たなかった。
「――、」
おじさんはそのとき、背中にぞっと寒気を覚えた。本能的な退避衝動だった。
「見なよおじさん、天然の迷宮脱出アクティビティだよ」
傘の下からにこやかに少年が顎で示す先、片端からスプレーの落書きに埋もれたサイケデリック迷彩の街全体に澱んだ空気と殺気とが充満している。
「四つ角から次々飛び出してくるモンスターを残らず狩って、運河の道までこの路地を突っ切るのさ」
少年の口角がニィと歪に持ち上がった。おじさんは息を飲んだ。それから後のことは、ぶっちゃけところどころ記憶が途切れて曖昧だ。
空を飛ぶようなものすごいスピードに引き回され、ときどきグラサンやら髭面やらの間近を掠めて、阿鼻叫喚の形相の人型めいたものが後ろに流れて行った。
「……おじさん面白かった?」
薄暗く入り組んだ小路を抜け、川沿いの大通りに出たところで、けろりとした顔に少年が訊ねた。
「アレだ、こーゆーの吊り橋効果って言うんじゃなかったっけ?」
カラカラ笑って少年が言った。
「……私は心臓破れそうだがね、」
余計丸くなった猫背に、ゼェゼェ息をついておじさんは答えた。「君の方は汗ひとつかいてないじゃないか」
「――ああ、」
少年は手にした傘の柄でさらりと赤毛の前髪を梳いた。もう片方の手は道中ずっとおじさんを掴んでいたから、実質使ったのは足技のみ、それでこの余裕の表情なのだから、全身全霊本意気出された日にはどうなることやら、おじさんは身震いした。
「……運動したら腹減ったな、」
少年は傘を上げて辺りを見回した。「今日はあそこにしようおじさん」
無邪気な笑顔に少年が言った。
ここでもメニュー全品、それはそれは清々しいくらいに少年はよく食った。作り笑いの店主の揉み手と怯えたような低姿勢も同じだった。テーブルにお茶だけもらっておじさんは考え込んだ。
「どーする父さん、次は映画でも見る?」
食後のお子様でざーとせっとを掻き込みながらすっかりご機嫌の様子に少年が言った。――俺ね香港のわーるが好きなんだよ、何回見てもいっつも途中で寝ちゃうんだけどさっ、それはそれで何度でも同じモン楽しめておトクさ、はしゃぐ少年をよそに、
「ウン、じゃあ君はその映画見て帰りなさい、父さんちょっと急用思い出したから」
おじさんは話半分、半纏の縫い目という縫い目から掻き集めた最終手段の虎の子の小銭を、――少ないですけど今日の分です取っといて下さい、驚いている店主に渡して店を出た。
「……ちょっ、どういうことだよ何さ父さんのバカ!」
番傘を広げて追い掛けてきた少年が往来で喚いた。「父さんいっつもそうなんだ、結局仕事仕事って、俺より仕事が大事なんだ!」
――わぁぁん父さんなんかまっどさいえんてぃすとの手にかかって全身段ボールマシンに改造されちゃえばいいんだーーーっっっ!!! 少年はベタな泣き真似をしながら駅前のシネコン目掛けて走り去った。
「……。」
おじさんは息をついた。頭を振って、今しがた出てきた店に戻る。しかしまたすぐ暖簾をくぐって表に出てくると、どこへやら足早に姿を消した。
その日おじさんが塒に帰って来たのはだいぶ遅くのことだった。
先に戻った少年は夕飯を自棄食いしてフテ寝していた。映画館でも結果的に昼寝していたのでなかなか眠くならない。苛立ちに尖らせている肩におじさんが話しかけた。
「今日は昨日の分の仕事で追っつかなかったから、明日また昼間のあの店に行こう」
「は?」
――何の話さ、肩越しに振り向いて少年が眉を顰めた。おじさんは少しやつれたように見える髭面を緩めた。
「せめて食べた分だけでも働いて返すんだよ」
「……」
赤毛の下の少年の表情がみるみる暗く歪んだ。
「やりたきゃおじさん一人でやんなよ、」
バカバカしい、鼻で笑って少年は背を向けた。
……ヘンなおっさんだとは思っていたが、正真正銘アホおやじだったとはね、正直やっとれませんわと、そのうちガチに腹を立てているのもバカらしくなって、ゲラゲラ笑い出したい気分になって、目を閉じてどっちもガマンしていたら、いつの間にか飽きて疲れて眠ってしまった。
おじさんの方は、黙って天上を見上げたまま、その日はなかなか寝付けずにいるようだった。
少年の底無し胃袋を満たすため、おじさんは日替わりに少年が食い散らすあちこちの食堂で下働きを始めた。バイト代はすべて少年の勘定に回してもらい、自分の稼ぎは一銭もなかった。いくら事情が事情でもタダ働きはあんまりだからと、見かねて賄いを付けてくれるところもあったから、それでなんとか日々食いつないだ。
おじさんが朝早く塒を出て行くことも、毎晩帰りが遅いことも、理由を知ってなお少年は飄々としていた。不機嫌を露わにした最初のあの日以来、感謝も非難も口にすることはなかったし、それまでの自分の生き方を改めることもしなかった。
それでもいいとおじさんは思っていた。自分は自分にできることを精一杯やるだけだ、汗水垂らして大海に砂粒を運び続けて、細波一つ起こせない、まるで無意味に思えても、一瞬先のことなんてつまるところ誰にもわかりはしないのだ。
「……ただいま、」
その日もおじさんの帰りは夜半を過ぎていた。いつも通りに静かな暗い部屋で、先に寝ているのだと思っていた少年の寝床は空だった。
おじさんは胸騒ぎがした。駆け寄った少年の寝袋にチラシが一枚差してあった。急いで窓辺に移動して、月明かりに裏面を広げてみる。いかにも子供っぽい、赤毛を揺らした少年の面差しと同じにどこか笑っているような文字だった。
『家族ごっこもアキたからリアルの妹探しに行くよ。じゃあね☆』
「……。」
あの子妹なんかいたのか、チラシを手におじさんは呟いた。引き締めた髭面の口元が知らず綻んで、彼が天涯孤独ではなかった、それだけでもとてつもなく大きな救いに思えた。
同時に自分は、自分が信じて運び続けた砂粒はほんの僅かでもあの子の心の隙を埋めてやることができたのか、所詮他人の関わりじゃとんだ無駄骨だったと諦めるのが賢い道か、青白い月明かりの窓辺に立ち尽くしたおじさんは、けれどそれでも、グラサンの縁を濡らして止めどなく溢れる熱い涙を堪える術を持たなかった。