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【aria二次】その、希望への路は

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8.工事現場へ



 水上エレベータが上端に達する寸前、二人のウンディーネの間でささやかなやり取りがあった。謳を歌いながら、乗客一人一人を見回したアテナは、最後に、ちら と、アリスに目をやった。
「このまま私が漕ぐ?」
 目線だけのわずかな問いかけに、これまた小さな仕草と表情の変化だけで、アリスが応える。
「いいえ、自分で漕ぎます」
 そのあとで、アリスは、ささやかな合図を付け加えた。
「ありがとうございました」
 かすかな微笑みでアリスに応えたアテナは、何事もなかったかのように歌い続け、歌い終わると同時に、熟練したウンディーネにだけ可能な動作で、すばやくアリスと位置を交代した。
 アテナに歓声を送る乗客たちの中で、このやりとりに気付いた者は、一人もいなかった。

 自分の番になって、水上エレベータの中にゴンドラを進めたアイは、さっきの疑問を思い返していた。この中でアテナさんの謳は、どんなふうに聞こえていたんだろう。自分で歌ってみれば、どんな感じだったか分かるかな? もちろん、アテナさんほど上手に歌えるわけじゃないけど ……
 最初はおずおずと、アイは歌い始めた。狭い空間が生み出す響きが面白く、やがて力強く歌いだす。注ぎ込まれる水音と、水面の上昇で微妙に変化するエコーだけを伴奏に、アイは歌い続けた。
 謳が終わり、ほっとひと息ついた時、こっちを向き、木枠に頬杖をついて聞き入る担当者と、ヨロコビの笑顔で自分を見ているアリア社長に気が付いた。

「なな、な、何を聞いているんですかー!」
 顔を真っ赤にしたアイが、隠れるように、すすす としゃがみこむ。いまひとつ無体な、だけど、気持ちは分からなくもないアイの抗議に、担当者は邪気のない笑顔を返した。
「いや、ごめんごめん。でも、見事でしたよ、お嬢さんの舟謳」
 同意するかのように、木枠の上でアリア社長が踊る。
 アイは、恥ずかしさに身悶えることしかできなかった。

 やがて、水門が開き、前方に水路が伸びる。
「さ、この先に工事現場があります。そこまで着けば終点です」
「はいっ」
 気を取り直して、アイがこたえる。最後の水門を抜けてから程なく、工事現場に到着した。仮設の桟橋にゴンドラを舫うと、作業員が乗り込んできた。さっき別れた、シルフのエアバイクが上空から寄ってくる。作業員は、エアバイクから垂らされたワイヤーと、木枠を縛るロープをしっかりと結びつけた。
 作業員とドライバーは、こまめに連絡を取り合いながら、すこしづつ木枠を吊り上げる。わずかに木枠が持ち上げられるたびに、それに合わせてゴンドラも浮き上がる。轟音を立てるエアバイクが、とうとう木枠を吊り上げてしまった時、アイは本当に終わったんだな、という安堵のため息を漏らした。

「おー、ごくろうさんだったねぇ!」
 その時、陸(おか)の上から、工事屋のおかみさんと思しい、いかついおばさんから声を掛けられた。
「どうせ飯どころか、お茶の一杯も振舞ってもらえなかったんだろ! これでも食べな」
 ねぎらいに恐縮するアイに、ランチパックを手渡してくれた。それを見たアリア社長が喜ぶ。無邪気に喜ぶアリア社長を見て、おかみさんの表情はひきつった。しばし逡巡し、やがて、負けたように追加のランチパックを、もう一食分アイに手渡す。追加が出たことに、アリア社長がますます盛り上がった。
「あれ? 二食分も用意しといてくれたんですか?」
 ゴンドラを降りた電力公社の担当者が尋ねると、おかみさんが、言いにくそうに答える。
「追加の分は …… あんたの飯だ …… 」
 それを聞いた担当者は、絶望の表情で天を仰いだ。その傍らで、アリア社長はヨロコビのでんぐりがえりを繰り返す。
 嗚呼。天国と地獄が、かくも隣り合わせに存在したことが、いまだかつてあっただろうか。周囲で見ていた作業員たちは、みな一様に目頭を押さえた。

「あんなに重いモンを積んでここまで上がってきたんなら、よっぽど大変だっただろう。せいぜい運賃はふっかけてやんな」
 担当者から目をそらし、梱包をほどくために一旦地上に置かれた発電機を見ながら、おかみさんは言った。あわてて、自分は見習いウンディーネだから運賃はもらえないんです、と、アイが答える。
「あ、作業服をお返ししなきゃいけませんね」
 上着を脱ぎ始めたアイを、おかみさんはおわてて押し止めた。
「ここを降りるまでは、そいつは着たままにしときな」
「あ、なんなら持ってってもいいですよ、それ」
 復活した担当者が話に割り込む。
「作業服の上っ張りをもらって喜ぶような娘さんが、どこの世界におるかぁ!」
 それを聞いたおかみさんが怒鳴る。
「この、朴念仁がぁ!!」
 おかみさんの剣幕に、周囲で見ていた作業員たちは、みな一様に口元にかるく握った手を添えておののいた。

 担当者から事情を聞いたおかみさんは言った。
「ここを降りて電機工場に作業服を返しに行くまでは、あんたは電力公社の雇い人だ、ってコトで押し通すんだよ、いいね」
 ちょっと怖そうだけど、根は優しそうなおかみさんが、生真面目な表情で語る言葉に、アイは素直に頷いた。こりゃあ、早めに降りてもらった方がいいかもね、とつぶやいたおかみさんは、周囲を見回すと、いきなりアイの首根っこをつかみ、荷物の陰に押し込んだ。
「ひゃあ」
 小さく悲鳴をあげるアイに続いて、少し遅れてアリア社長も物陰に逃げ込む。

 林立する風車の群れと、ネオヴェネツィアを一望する風景を堪能した乗客を乗せたゴンドラは、帰路についていた。アリスの案内を聞きながら、乗客の様子に目を配っていたアテナは、かすかに「ひゃあ」という悲鳴を耳にした。おもわず、声が聞こえた方に目を向けると、見覚えのあるような白い丸い物体が、物陰に向けて転がっていく。
 そこでは、風力発電機の交換工事が行われていた。仮設の桟橋に、往路で後ろから付いてきていたゴンドラが、空荷で舫われている。どうやら、発電機を積んできていたのだろう。こういう工事は、もっと違う日にやっといてくれたらなぁ、と、アテナは内心で思った。

 でも、さっきの丸くて白い物は? あれは、よく見知っている物のような気が?
 心に浮かんだ疑念を押し殺すと、アテナは目の前のクルーズの添乗員としての作業に集中した。

 プリマが操るゴンドラが、視界の外に去るのを見届けて、ようやくアイは物陰から出ることを許された。
「いきなりごめんよ」
 詫びてくるおかみさんに、いまいち訳が分かっていないアイは、いいですよ、と応える。
「ともかく、早めに風車の丘を降りるんだよ」
 そう言いつけられたアイが、工場に作業服を返しアリアカンパニーに戻ってきた頃には、夕方になっていた。
 事務所には明かりが灯っているのが見える。あ、灯里さんがいるんだ。そう思ったアイは、オールを漕ぐ手に力を込めた。

 事務所で用事を済ませていた灯里は、ふと、外に広がる夕暮れ時の海を見た。こちらに向けてやってくるゴンドラを見た時、最初は、誰か知り合いのプリマが訪ねてきたのかと思った。やがて、そのシルエットだけのウンディーネが、アイだと気付き、灯里は思わず出迎えるために席を立っていた。