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【NO.6】繋がるひととき

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芯まで凍りつくような冬の夜。小さな部屋の片隅で、旧式のストーブが燃えている。


 皿から立ちのぼるあたたかな湯気が、白くぼんやりと薄闇に浮かんだ。不規則にゆらりと揺れながら、徐々に徐々に冷たい空気に溶け、消えていく。
 それを何とは無しに眺め、紫苑は小さく身じろぎした。
 直接座った床は硬くて冷たい。その上、寄りかかっているベッドは骨組みが背に当たり、まったくもって楽ではない。けれど、紫苑にとってそんなことは限りなくどうでもいいことだった。
 そんなことよりも、今は。
 カチャン。
 ふと紫苑がスプーンを置いた。
 「・・・ネズミ。」
 「うん?」
 紫苑は、自分の左後方、ベッドに座って淡々とスープを口に運ぶネズミを、顔だけで振り向いた。
 身体ごと向き直ることはできなかった。スープがこぼれてしまう。
 「スープが、食べづらい。」
 紫苑の両手は塞がっていた。 右手は自分のスープの皿で。そして左手は、ネズミの右手で。
 そう、二人は手を繋いでいた。
 なぜだかは分からない。無言でスープを啜っていたら、突然ネズミの手が伸びてきて、紫苑の左手をさらって行ったのだ。
 繋がれた手を軽く振って、紫苑が小首を傾げてみせた。
 「どうかしたのか?ネズミ。」
 まっすぐに見つめられ、ネズミはどう答えようか逡巡した。
 どうかしたのか、と問われれば、別にどうもしていない。何も変わったことなどない。
 だが、それが手を繋いでいることの理由を問うているのならば、その問いに対する答えをネズミは持っていなかった。
 いや、持っていない訳ではなかったかもしれない。ただ、自分でもよく分からなかったのだ。ただの気まぐれかもしれないし、そうではないような気もする。そしてそれは、突き詰めて考えてはいけないように思えた。
 だからネズミは、今、心の内に感じている確かなことだけを口にした。
 「手が、冷たくてね。あんたの手はあったかい。」
 紫苑はぱちり、と大きく瞬いた。
 紫苑と同じく片手しか空いていないのに、ネズミは実に器用にスープを口に運んでいた。 まじまじと繋がれた手を見る。
 なるほど、確かに冷たい。
 そういえば、ネズミの手はいつも冷たい。腕を掴まれた時も、顎に手をかけられた時も、ひんやりと冷たかった。
 ただ、そういう時にはいつだってネズミの美しい濃灰色の瞳がすぐ側にあって、紫苑はその瞳に魅せられてしまう。
 その手の冷たさに、気づけないほど。
 けれど、そうか。紫苑は思った。
 ネズミは手が冷たいのが嫌だったんだな。
 それなら、自分にもできることがある。
 ほんの僅かな時間、ほんの少しだけ。自分の熱をネズミに分け、体温を共有する。本当にささいなことだけれど、紫苑は嬉しかった。例え一瞬でも自分の熱がネズミの一部となることが、ネズミがそれを受け入れてくれることが、紫苑は胸がじわりと熱くなるほど嬉しかった。
 「ほんとだ。冷たい。じゃあ仕方ないな。」
 紫苑は繋がれた手を少しだけ強く握り、一瞬ふわりと微笑んだ。それから手元を見て、
 「スープ、食べづらいけどな。」
 と、無邪気に笑い声を上げた。
 その様子を見て、ネズミは身体から一気に力が抜けるのを感じた。
 あっさりだ。あっさりと納得しやがった。やっぱり天然は健在だ。
 ネズミは呆れた。例えばここで『手が冷たいならストーブに当たればいいじゃないか』と返されたら。まったくその通りなので、ネズミは何か適当に理由を考えなくてはいけないところだった。けれど、紫苑は疑わなかった。手が冷たいからなどという理由で突然手を取ったと、簡単に信じた。
 呆れずにはいられなかった。それどころか「冷え性かな。ネズミはがっしりしてるから、筋肉量は多そうなのに。」なんて、真剣に理由を考えている始末だ。
 紫苑の手を取ったことなど、ただの気まぐれだ。そういうことにしよう。 理由など考える必要はない。そう、ただの気まぐれなんだ。それ以外に何もない。
 ・・・なんだかどっと疲れた気がする。ネズミは心の中だけで、そう小さく呻いた。
 けれど。疲れたのに。それなのに。
 なぜか、繋いだ手を離そうという気がまったく起きなかった。
 内心、ネズミは困った。
 最初よりも少しだけ強く握られた手。繋がったその場所から伝わる熱が心地良い。
 離せない。
 適当な理由を言って離してしまえばいい。「もう十分温まった。」でも「やっぱりスープが食いづらい。」でもいい。何だって構わない。早く、この手を離さなければ。
 紫苑、と声をかけようとした瞬間、スプーンをカチャカチャと動かしていた紫苑が先に口を開いた。
 「ネズミ。」
 「・・・なんだ。」
 紫苑がネズミを振り返って、言った。
 「やっぱり、このままじゃうまく食べられない。こぼしそうだ。」
 その言葉にネズミはほっとする。紫苑から言い出した。これで手を離せる。
 「そうだな。」
 「だから。」
 じゃあ手を離そう、と続けようとしたネズミの言葉を遮って紫苑が笑う。まるで、いいことを思いついた、とでも言うように。
 「きみが食べさせてくれ。」
 「・・・は?」
 にこにこと笑いながら、紫苑がもう一度繰り返す。
 「だから、きみが食べさせてくれれば、手を離さなくていいし、ぼくもスープを食べられる。一件落着じゃないか。」
 「おれはあんたのママじゃない。」
 「そんなこと知ってる。ぼくだってこんなごつごつした母さんは嫌だ。」
 そうじゃない。問題はそこじゃない。
 疲れた。心底疲れた。なんだこれは。紫苑の手を取ったことなど、ただの気まぐれだ。そういうことにした。けれどその気まぐれが、最高に面倒なことになっている。
 ネズミは大きく息を吐いた。
 もう、いい。元はと言えば自分の招いた種だ。紫苑の気が済むまで付き合って、終わりにした方がきっと早い。
 ちらりと見れば、なにがそんなに楽しいのか、紫苑は笑ったままだ。
 もう一度、今度は小さく息を吐いて、開き直ったようにネズミは言った。
 「それでは陛下、お口を。」
 舞台用の口調で、優雅に。紫苑に向かってひとさじのスープを差し出す。
 その流れるような動作に、紫苑は見惚れた。いつだって、ネズミの動作は美しい。一切無駄のない、しなやかなネズミ独特の動き。濃灰色の瞳に、美しい動作に、何より彼自身の在り方に。ネズミのすべてに、紫苑は惹かれてやまない。
 ぽかん、と呆けたように開いた口にスプーンが運ばれた。
 ネズミに見惚れたまま、それでも反射的に、紫苑は差し出されたそれを口に含み、スープを嚥下した。
 「さて。特製スープのお味はいかがですか、陛下?」
 言いながら、スプーンを持つ左手の親指の腹で、紫苑の唇をすいっと撫でる。スープの滴が一滴、唇からその指にさらわれて、ネズミがそれをぺろりと舐めた。
 「もちろん、最高だ。」
 紫苑が笑う。
 ネズミも、笑った。
 「それでは、わたしにも食べさせて頂けますか?」
 続けて、おれもこのままじゃ食いづらい、とわざとらしく肩を竦めてみせる。
作品名:【NO.6】繋がるひととき 作家名:加賀