前に進む勇気
控え目なノックの音と共に名を呼ばれて、ロイドはペンを走らせていた手を止めた。顔を上げ、開いてるよと返せば、すぐに扉が開かれる。エリィは手にしたトレイを軽く掲げてみせると、にっこりと微笑んだ。
「お疲れさま。お茶を淹れたんだけど、よかったらどうぞ。」
「ありがとう。いただくよ。」
答えながらさりげなく時計を見ると、デスクワークを始めてからすでに二時間ほど経っているようだ。机に向かう姿勢のまま固まった肩を回しながら立ち上がると、ふわりとお茶の香りが鼻孔をくすぐった。自然と頬が緩み、エリィに向ける顔にも笑みが浮かぶ。
「いい匂いだな。」
「でしょう?ふふ、《タイムズ》のパールさんに教えてもらった通りに淹れてみたのだけど、味をみてもらえるかしら。」
くすくすと、どこか楽しそうに笑うエリィからソーサーごとカップを受け取って口元に運ぶ。途端にふわりとした花の香りが口中に広がった。普段口にするものより若干温めの飲みやすい温度とほどよい甘さも手伝って、固まった身体と脳を解してくれるような気がする。
「へぇ、かなりおいしい。これ、砂糖じゃなくて蜂蜜だよな?」
「ええ。アルモリカ産の蜂蜜に合う茶葉を探すのに苦労したって言ってたけど……」
そう言ってエリィは声を潜めた。キラキラと瞳を輝かせ、少し頬を赤らめて笑うその表情は内緒話を打ち明ける幼い少女そのものだ。ロイドは小さく苦笑して顔を近づけると、エリィの次の言葉を待った。
「パールさんね、仕事で疲れているスコットさんを癒やしてあげたいからって、必死に探したそうなの。」
きゃー、と嬉しそうに声を上げるエリィを見ながら、ロイドはなるほどと頷いた。確かに、熱すぎない温度もくどくない甘みも、疲れを取るには最適だ。花の香りもさほど強くないから男性にも飲みやすい。
茶葉の組み合わせや蜂蜜の量、お湯の温度に蒸らし時間。この味を出すために相当な研究を重ねたと思われるが、その原動力に恋人のためという想いがあったとするならば、エリィがここまではしゃぐのもわからないでもなかった。
「恋人のために、か。女の子ってすごいパワー持ってるよな。」
「あら、好きな人が大変な時に何か手助けしてあげたいって思う気持ちは男の人も同じでしょう?」
「それは……まあ、そうなんだけど。」
曖昧に頷いて、またお茶を含む。
エリィの言う通り、好きな相手のために何かしてあげたいと思う気持ちはもちろんある。だがロイドにとっての“何か”は仕事を手伝う、悩み事の相談に乗るなどの具体的な手段だ。疲れを取るためにお茶を作るといった、直接には関わらずに支える方法など思いつきもしなかった。
「ランディも……」
(そういう女の子の癒やしが欲しいって、思うことはないのかな。)
ぽろっと出掛かった想いに慌てて口を閉ざし、お茶で流し込む。そんなロイドに、エリィは笑みを見せた。
「大丈夫よ。ランディにはティオちゃんが差し入れてくれてるわ。」
「あ……そうなんだ、ありがとう。」
全く別の意味で返ってきた返事にほっと息を吐き、空になったカップをトレイに戻す。大きく伸びをして首を回すと、その目の前に紙の束が差し出された。
「それからこれ。私とティオちゃんの分の報告書。」
「もう書けたのか?!」
「ええ。デパートの棚卸のお手伝いって仕事自体は忙しいけど同じ作業の繰り返しだから、報告書に記入する内容はそれほどないのよ。」
エリィの言葉を聞きながら、受け取った報告書に目を通す。言葉とは裏腹に細かい所まできちんと書きこまれたそれは非のつけようもなく、ロイドはふっとその顔に笑みを浮かべた。
「俺もエリィみたいに、こんな報告書が短時間で書けるようになりたいよ。」
「あら。ロイドの報告書だって綺麗にまとまってるし読みやすいと思うわよ?」
「はは、ありがとう。」
「問題は…………」
エリィがため息混じりにロイドの部屋の壁に視線を送る。その向こうにいる報告書を書くのが何よりも苦手な男の顔を思い浮かべ、二人は顔を見合せて苦笑した。
「ロイド、あんまり甘やかしちゃだめよ?」
「わかってるよ。でも任せきりにしておくと一体どんなものが……」
答える声にノックの音が重なる。ロイドが返事をすると、小さく開いた扉からティオがぺこりと頭を下げた。エリィと同じトレイに空のカップを乗せているところを見ると、話題の人物にお茶の差し入れに行った帰りなのだろう。
「エリィさん、そろそろ……」
「ええ、すぐ行くわ。それじゃロイド、休憩もちゃんと取って、早く休んでね。」
「今十分休憩したよ。ティオもありがとう。」
「いえ。……あの、ロイドさん。」
「ん?」
言いにくそうに視線を逸らすティオに、何となく嫌な予感を覚えながら問い返す。
「ランディさんの報告書……かなりまずいです。」
「…………」
「…………」
ロイドとエリィは黙ったまま顔を見合わせた。そこに深刻な表情のティオが加わる。
「一応、もう少しなんとかしたほうが良いのではと言ってはみたのですが……」
聞き入れてはもらえなかったのか軽くあしらわれたのか。意気消沈した様子のティオにロイドは笑顔を向けた。
「ま、まあ今日は個別任務になった時点である程度の覚悟はしてたし、後で俺もチェックするから大丈夫だよ。」
「そ、そうよね。ティオちゃんは気にしなくても平気よ。様子、教えてくれてありがとう。」
「ですが……あんなに白い報告書、初めて見ました。」
必死のフォローも虚しく、視線を伏せたティオが暗い声でぽつりと呟く。すっかり静かになった室内で三人は揃って互いの顔を見つめ、深く長いため息を吐いた。