はじまる一週間 (金曜日)
今日も東京は晴れている。晴れ渡る空には、そろそろ残暑を迎えたいコンクリートが反射する暑さに身体をやられた人間たちを嗤う様に、未だ太陽が姿を存分に見せつけていた。
熱中症で倒れこむ人間が後を絶たない池袋で、雑踏の隅に存在を隠していた静雄も空を見上げていた。煙草の煙が都心では見ることが難しい青空に立ち上る様を、ここ十数分程眺め続けている。
(俺は一体何をやっているんだ)
早朝から仕事に励み、珍しくも順調に進んでいく件数をこなして半休を貰った。
静雄としては、今朝は普段よりも大分早起きをしていた為に自宅に戻って休みたい所である。それが叶わないのは、そもそも今日の自分の行動の根底にある事実がいけなかった。
二日前に突然知らない高校生に告白をされ、なぜか一週間限定での付き合いが始まった。その時、浮き足立っていたのか告白を受け入れてしまった静雄は、正直な所一週間など早く過ぎ去るものだろうと安易に考えていたのだ。
そもそも静雄は付き合うという事がどういう事をするのかがよく分からない。相手から何か行動を起こすというにも、一週間という期間ではそれも難しいだろう。
今までの経験則からそう考えた静雄は、特に気にすることもなく過ごせるだろうと思っていた。にも関わらず、少年からメールがあり「一緒に過ごしましょう」と伝えられては断る事も静雄には出来なかった。
例えこれが、子供のままごとであったとしても一度受け入れてしまったのだ。一度言った言葉を否定するのは、静雄の常識では否である。
だからこそ、静雄は金曜日というかき入れ時の昼過ぎにぼんやりと公園で煙草を吸っているところだった。時刻のせいか、公園にいる人間は休憩時間だろうサラリーマンやOLが何人かいるだけである。ちらちらと静雄に視線を寄越すものの、頭の悪い若者のように声を掛けてくる者はいない。大人は基本的に、面倒事に関わるという事をしないと静雄は知っている。静雄だって出来るなら面倒ごとは避けて通りたい性分だった。そもそも名前の通り静かに過ごしたいと誰よりも思って生きてきたのだ。
(なのに俺は面倒な事をしてるんだよな)と静雄は思う。年の離れた高校生と付き合う等、面倒以外の何者でもない。静雄は別に少年の事を好きな訳ではないし、少年の言う「好き」の意味も良く分かってはいなかった。
少なくない時間、一人思考に耽った後に公園にある大きな時計を見ると、時刻は三時を指している。学校ははたしてどの程度の時間に終わるのだろうかと静雄は不思議に思うものの、吸い終わった煙草を消してもう一度新しいものに火を点けた。フィルターから小さく爆ぜる音がして、もう一度そこから出る煙を吸い込んでやる。
携帯はそのポケットの中にあったものの、静雄は携帯から相手に連絡を取るという事はしなかった。そもそもその手段を静雄は思いつかないのだ。
待ち合わせ場所に指定されていた公園は、駅のすぐ近くに設置されている。休日等は待ち合わせ場所として様々な人間に利用される為、逆に待ち合わせには向かない場所でもあるといえよう。平日という事もあって人は未だ少ないものの、時間が過ぎれば街と共に公園も姿を変える。
静雄の待ち合わせ相手は高校生だ。今日が平日である事から、恐らく制服のまま来るだろう少年の顔を思い出そうとして、そこで静雄はそれを止めた。
顔全体を思い出す事が静雄には出来なかった。何度か思いだそうと記憶の引き出しを開けるものの、静雄の描く少年像は朧気でいまいち判然としない。
静雄が思い出せる少年は興奮に赤く染まる肌だったり、他人よりももっと純粋な好奇を向ける瞳という、顔というよりはそれを形作る部分部分だけである。
(ああ、そうだ後輩なのか)
それから、目に痛くない淡い色の制服を思い出して、静雄は小さく溜息を吐いた。静雄自身も着ていたその制服を目にする機会は、池袋にいる限り少なくない。待ち合わせに来ておいて、相手がわかりませんでしたでは滑稽どころの笑い話では済まないだろう。そもそも静雄のプライドがそれを許さなかった。
だから、今もこうして過ぎる背景のような人の群れに目をやりながら、静雄は必死で普段使わない頭を巡らせて記憶を辿ろうとしている。それでもその行為に意味が無い事を知って、静雄はその度に吸いきった煙草を消して新しいものに火を点けるという行為を繰り返していた。
「静雄さん」
「っお、ああ」
気付くと静雄の目の前には、静雄より頭一つはゆうに小さいだろう、水浅葱色の制服を着た少年が立っていた。
(そうだこいつだ)
静雄はそこではたとする。自分の記憶の中で曖昧に思い出されるだけに留められていた少年の記憶が、面白いようにその輪郭を表していくからである。
今、目の前で静雄を上目に見上げる高校生というよりは中学生にしか見えない少年が、何を考えているのか静雄と一週間付き合う交際相手なのである。
「竜ヶ峰」
一つの情報を思い出してしまえば、雪崩のようにどんどんと記憶が息づいていった。
昨日から忘れないようにとひたすら頭で唱えていた名前を口に出すと、少年は驚いたように口を開いた後、その口が弧を描いて笑った。
「名前、覚えてくれたんですね。嬉しいです」
(なんだ、なんかこいつ)
笑えばいっそう幼く見えるその表情のせいだろうか、それとも率直に届いた静雄へ向けた言葉のせいだろうか、静雄の胸がざわざわと疼く。
高校生の考える、只のままごとの付き合いである事を頭では理解しているというのに、急に目の前の少年を護ってやらなければという庇護欲が芽生えた気がして頭を振る。俺は一体どうしたと自分に疑いを持ってしまったのだ。
「どうかしましたか、静雄さん」
やっぱりどうかしてるんだろうか、と静雄は思う。すぐ後に(どうかしてるんだろうな)と気付いて首を振った。
どこかおかしくなっていなければ、こんな状況からまずありえないだろうという事は静雄も分かっている。そうでなければ、自分が高校生の少年と待ち合わせをして、しかも一緒に立ち話をしているなど有り得ないのだろう。
しかし静雄の目の前に立つ少年は、周囲の自分たちを見てくる視線も大して気にならないのか、別段気にする様子もなく首を傾げたり、手持ち無沙汰に肩に掛けた鞄を握りしめたりしている。
「いや、俺は大丈夫だ」
大丈夫という言い方が正しいのかはわからなかったが、少年をというよりは自分を安心させるように静雄はそれだけ言って、首もとにある蝶ネクタイを直す振りをする。直に少年を見る事が出来ないのは、照れている訳ではないと頭の中で念じるように呟いた。
「あの、静雄さんもしかして、僕結構お待たせしちゃいましたか?」
「いや、俺は待ってない」
そうですか、すみませんと謝る少年の見詰める先にあるのは、煙草の吸い殻が山盛りになったまま静雄の足下に置かれている空き缶だった。その視線がどこに向かれているか気付いた静雄も、慌てて言葉を掛けようとしてはっとする。
一体何を言えばいいのか、てんで見付ける事が出来ない。
「静雄さん、どこに行きましょうか?」
作品名:はじまる一週間 (金曜日) 作家名:でんいち