彷徨う旅人の行く末に
「…ただいま」
気怠けに帰宅を告げると、常ならば何かしら声が掛かる筈なのに、今日はうんともすんとも返ってこない。
怪訝に思い、もう一度同じ言葉をきつめに投げ掛けるが、返ってくるのは静寂のみ。
確かな人の気配は感じるのに、おかしい。
ざわり、と胸が騒ぐ。
もしかして、何かあったんじゃないのか___そう考えたら、居てもたってもいられなくなる。
さあっと血の気を引かせ、焦れるように靴を放り出した。
もし、もし晶馬が居なくなったら___
いつもの距離が、どうにももどかしく感じる。
「晶馬!」
居た、ちゃんと、そこに、在る。
台所に見知った華奢な身体を確認して、どっと力が抜けるのを感じた。
「…ちゃんと居るんじゃねぇか、吃驚させやがって」
言葉こそ乱暴だが、夕食を作る弟の背に心底安堵したのは本当だ。
「おい晶馬、お兄様のお帰りだぞ」
そう声を掛けてみても、晶馬はぴくりとも反応しなかった。
何事も無かったかのように、忙しなく手を動かしている。
まるでここに存在していないかの様な扱いにムッとして、思い切り体重を預けて抱きついてやった。
「ぎゃあ!?」
「うお!?」
いきなりの事に驚いた晶馬は、持っていた包丁を落としそうになるのを、すんでの所でどうにか持ち直していた。
あと少しでも遅かったら、晶馬の足にその刃が突き刺さっていたかもしれない。
その光景を想像してぶるりと身震いした。
「あ、兄貴!?」
振り向いた弟の丸っこい瞳が、心底驚いたような色を浮かべている。
「お、おう、晶馬、ただいま」
元々は晶馬が返事をしなかった事が原因だが、危ない目に合わせたのは完璧に俺が悪い。
居た堪れなくなって、冷や汗を流しながら視線を彷徨わせた。
「帰ってたの…気付かなくてごめん…じゃない!危ないだろ!?包丁扱ってるんだから、二度とあんな事しないでよ!?死ぬかと思った…!」
心臓の辺りを両手で鷲掴み、きっと睨みつけてくる。
「わ、悪かったって」
へらへらと晶馬を宥めると、それが気に食わなかったのか尚も食い下がってきた。
一歩前へと踏み込んだ弟の足が、俺の領域に何の断りも無く侵入してくる。
純粋で、何も知らない、真っ白な弟。
また、ざわり、と胸が騒いだ。
「もう!本当に反省してるの!?」
「してるしてる。でもな、そもそもお前が返事をしないから悪…って、それ、何?」
「へ?」
ああ、これ?とイヤホンを外しながらカチカチ、と本体を操作する晶馬の指に目を奪われる。
しかし、こんな物買った覚えもなければ、晶馬が使っていた記憶もない。
そんな疑問を汲み取ったのか、晶馬がにこりと笑った。
「これ、山下が貸してくれたんだ」
「へぇ…またどうして」
「それがね、僕が最近の曲あんまり知らないって話になってさ、そしたら貸してやる!って言って、無理矢理押し付けられた」
でも、結構いい曲ばっかり入ってるんだよ、なんて楽しそうに操作している。
(成程、それを聴いてたから、俺の声が届かなかったのか)
ちらりと晶馬の顔を盗み見ると、楽しそうに機械を弄りながら、この曲が良かった、これはちょっとイマイチ、なんて一々説明しながら嬉しそうに笑っている。
最近陽毬の件で塞ぎ込んでいたから、晶馬のこんな生き生きとした顔は久しぶりに見た気がする。
きっと、山下もそんな晶馬を気遣ってくれたのだろう、と心の中で感謝の意を述べる。
それと同時に、俺は晶馬を笑顔にする術を知らない事に気付いて、軽い嫉妬を覚えた。
「それでね…兄貴?聞いてる?」
「あ、ああ、聞いてる聞いてる」
「またいい加減に返事して!もういいよ、兄貴はあっちで黙って座ってて!」
どうやら俺の態度がご機嫌を損ねてしまったらしい。
ぷいっと若干膨らんだ頬を逸らし、夕食の準備を再開させた。
そんな所が最愛の妹、陽毬にそっくりで、思わず面影を重ねて切なくなる。
「悪かったって。んじゃ、大人しく待ってますよ」
ぽんぽんっと軽く肩を叩いて背を向ける。
一定の間隔で刻まれる包丁の心地よいリズムを背に感じながら、俺は自嘲的な笑みを浮かべた。
気怠けに帰宅を告げると、常ならば何かしら声が掛かる筈なのに、今日はうんともすんとも返ってこない。
怪訝に思い、もう一度同じ言葉をきつめに投げ掛けるが、返ってくるのは静寂のみ。
確かな人の気配は感じるのに、おかしい。
ざわり、と胸が騒ぐ。
もしかして、何かあったんじゃないのか___そう考えたら、居てもたってもいられなくなる。
さあっと血の気を引かせ、焦れるように靴を放り出した。
もし、もし晶馬が居なくなったら___
いつもの距離が、どうにももどかしく感じる。
「晶馬!」
居た、ちゃんと、そこに、在る。
台所に見知った華奢な身体を確認して、どっと力が抜けるのを感じた。
「…ちゃんと居るんじゃねぇか、吃驚させやがって」
言葉こそ乱暴だが、夕食を作る弟の背に心底安堵したのは本当だ。
「おい晶馬、お兄様のお帰りだぞ」
そう声を掛けてみても、晶馬はぴくりとも反応しなかった。
何事も無かったかのように、忙しなく手を動かしている。
まるでここに存在していないかの様な扱いにムッとして、思い切り体重を預けて抱きついてやった。
「ぎゃあ!?」
「うお!?」
いきなりの事に驚いた晶馬は、持っていた包丁を落としそうになるのを、すんでの所でどうにか持ち直していた。
あと少しでも遅かったら、晶馬の足にその刃が突き刺さっていたかもしれない。
その光景を想像してぶるりと身震いした。
「あ、兄貴!?」
振り向いた弟の丸っこい瞳が、心底驚いたような色を浮かべている。
「お、おう、晶馬、ただいま」
元々は晶馬が返事をしなかった事が原因だが、危ない目に合わせたのは完璧に俺が悪い。
居た堪れなくなって、冷や汗を流しながら視線を彷徨わせた。
「帰ってたの…気付かなくてごめん…じゃない!危ないだろ!?包丁扱ってるんだから、二度とあんな事しないでよ!?死ぬかと思った…!」
心臓の辺りを両手で鷲掴み、きっと睨みつけてくる。
「わ、悪かったって」
へらへらと晶馬を宥めると、それが気に食わなかったのか尚も食い下がってきた。
一歩前へと踏み込んだ弟の足が、俺の領域に何の断りも無く侵入してくる。
純粋で、何も知らない、真っ白な弟。
また、ざわり、と胸が騒いだ。
「もう!本当に反省してるの!?」
「してるしてる。でもな、そもそもお前が返事をしないから悪…って、それ、何?」
「へ?」
ああ、これ?とイヤホンを外しながらカチカチ、と本体を操作する晶馬の指に目を奪われる。
しかし、こんな物買った覚えもなければ、晶馬が使っていた記憶もない。
そんな疑問を汲み取ったのか、晶馬がにこりと笑った。
「これ、山下が貸してくれたんだ」
「へぇ…またどうして」
「それがね、僕が最近の曲あんまり知らないって話になってさ、そしたら貸してやる!って言って、無理矢理押し付けられた」
でも、結構いい曲ばっかり入ってるんだよ、なんて楽しそうに操作している。
(成程、それを聴いてたから、俺の声が届かなかったのか)
ちらりと晶馬の顔を盗み見ると、楽しそうに機械を弄りながら、この曲が良かった、これはちょっとイマイチ、なんて一々説明しながら嬉しそうに笑っている。
最近陽毬の件で塞ぎ込んでいたから、晶馬のこんな生き生きとした顔は久しぶりに見た気がする。
きっと、山下もそんな晶馬を気遣ってくれたのだろう、と心の中で感謝の意を述べる。
それと同時に、俺は晶馬を笑顔にする術を知らない事に気付いて、軽い嫉妬を覚えた。
「それでね…兄貴?聞いてる?」
「あ、ああ、聞いてる聞いてる」
「またいい加減に返事して!もういいよ、兄貴はあっちで黙って座ってて!」
どうやら俺の態度がご機嫌を損ねてしまったらしい。
ぷいっと若干膨らんだ頬を逸らし、夕食の準備を再開させた。
そんな所が最愛の妹、陽毬にそっくりで、思わず面影を重ねて切なくなる。
「悪かったって。んじゃ、大人しく待ってますよ」
ぽんぽんっと軽く肩を叩いて背を向ける。
一定の間隔で刻まれる包丁の心地よいリズムを背に感じながら、俺は自嘲的な笑みを浮かべた。
作品名:彷徨う旅人の行く末に 作家名:arit