ゴーストQ
ずっと重しを置いて押し付けていた感情が、酒のせいで頭の中をゆらゆらと漂う。その切れ端を掴もうかどうしようか悩んでいるうちに、見慣れた角を通り過ぎてしまっていた。
「やべ、家過ぎた」
「はぁ? お前んちどこよ?」
「そこの角すぐ」
結局部屋まで送ってもらってしまった。別に一人でも大丈夫だったと思うんだけど、水谷の好意を断る理由がなかった。いつもこんな感じだな、オレ。
ドアの前で鍵を探しているとき、水谷へ礼を言っていないとようやく気づく。明日も仕事があると聞いていたのに、ずいぶん無理をさせてしまった。
「水谷、きょう……」
「寒いだろ、早く中入んな」
そう急かされたから、とりあえず部屋に入って明かりをつけた。振り返ると、開かれたドアの外、水谷がやたらと優しい顔で「鍵かけて寝ろよ」と言った。
「水谷今日ありがとな」
「ん?」
「メシうまかった」
その言葉に偽りはなく、オレは水谷の目を見つめ、にっと笑ってみせた。てっきり相手もつられて頬を緩めるものと思っていたのに、水谷は微妙に切羽詰った表情だった。テレビでも今までにも見たことのない顔をしている。不思議だった。
部屋の明かりが水谷を淡く照らす。ゆっくりとした動作で水谷の顔が近づいてきているのに、オレはその表情から心を読み取ることに集中していて、抗うことまで気が回らなかった。無防備に目なんか閉じられないし、閉じるタイミングがいつなのかわからない。
あと数センチでくっつきそうになったら、水谷はオレの名前を呼んだ。意外と声が大きく聞こえて驚く。内側まで響いてくるようだった。
触れ合っている唇だけが温かい。水谷の伏せた瞼をふちどる線がきれいだった。水谷は乾いた唇を当てているだけで、他に何かしてくるような気配はない。
その整った顔を見続けていたら、異様な恥ずかしさがわき上がって来る。だってなんかこれ、ちゃんとしたキスっぽくないか。昔のあれは事故みたいなもんだったけど、多分今してるのはドラマの最初のほうでするあれっぽい気がする。
唇が離れ、重なっていた部分に冷気が当たる。恥ずかしくて顔なんか上げてられない。オレはうつむいた。
「……おやすみ」
そう言い、水谷はこちらへ静かにドアを押し戻した。言われた通り、閉じたドアへ鍵をかける。オレはまだ混乱している。
だけど足音が聞こえなくなってようやく、色んな感情が爆発した。
「メシ食うだけでいいんじゃなかったのかよ……!」
やたらとでかい独り言が玄関の壁に跳ね返る。前みたいに殴って突き放せなかった。それどころか少しだけかっこいいって思ってしまった。
これはちょっとやばい。水谷がオレの内面へ入ってくることを、知らず知らずのうちに許してしまっている。
どうにかしないと。でももう手遅れっぽくないか。
わけがわからなくなって、そのままベッドへ倒れこんだ。頬に寝具の冷たさを感じる。暖房をつけていない部屋の中は寒く、徐々にその冷たい空気がじわりと降りてくる。けれど水谷と合わせた唇だけが火照って落ち着かなかった。変に気持ちが高ぶって、眠いのに全然眠れない。
うわー。
オレの頭の中でそんな悲鳴が連呼されていた。