花の名は
「……ひゃくにちべに?」
「それは、さるすべり」
「おお、本当だ。丹波は博識だな」
「常識」
「そうかな」
堺は納得のいかぬ顔でマス目を埋めていく。
さるすべり、と几帳面な文字で書きこむ堺の様子を丹波は、あきれ気味に覗きこんでいた。
自分のロッカーに座り込んでいる堺は、クロスワードパズルを懸命に眺めながら、ため息をついた。
「百日紅で、さるすべりか。ずいぶんと強引な当て字だな」
「昔の人に文句を言えよ」
堺が暇つぶしに始めたクロスワードパズルのマス目は、なかなか埋まらないようだ。
口出ししたいが、そんなことをすれば機嫌が悪くなるのを長い付き合いで知っている。
仕方なく黙っているが、どうにも居心地が悪い。
今、堺が取り組んでいるものは、ヒントから想像するに植物がテーマのようだった。丹波は、主のいない夏木のロッカーに座り込むと、漢字の一つを指さした。
「これは、なんて読む」
「あじさい」
「言えたのか」
よどみなく答えた堺が意外だった。思わずそう呟くと、堺はバカにするなと言う顔をする。
「言える時もある」
「さるすべりは、知らないくせに」
「ラブホテルの名前で、さるすべりは、見たことがなかったからな」
さらりとすごい発言をする。突然ラブホテルかよ、と思いながら丹波は「はぁ」と、間の抜けた声を上げた。
「あじさいホテルって言うのが、あったんだ」
「へぇ」
ラブホテルと、花の名前にどのようなつながりがあるか、と丹波が首をかしげる隣で、堺は話を続けた。
昔、付き合っていた女性は、ドライブ中に見かけた派手なネオンを見るなり助手席で笑いだしたのだと、堺は言う。
丹波は変な女がいるものだなと、うなずきながら漢字を目で追った。
「紫陽花って書くって教えてもらった時は、すげえ当て字だなって思ったんだ」
「うん。そうだな」
それと女性が笑ったと、言うエピソードがつながらない。丹波は、それがどうしたのだ、と訊ねる。
堺は思い出し笑いをしながら、文学的だという。
「どこが、文学的なんだ」
首をひねる丹波に向けて堺は、漢字を素直に読んでみろよと笑い続けた。
「むらさき、よう、はな……」
「残念。一つだけ正解」
堺の言葉に丹波は、脳裏にひらめくものを感じた。
「し、よう、か。しようか、ね。なるほど」
そう言って手を打ったと同時に「ラブホテルの名前かよ」と、声を上げて笑う。
「しようかホテル」
二人で声をそろえて思わず呟く。
「文学的だなぁ」
「文学的だろう」
文学と言うサッカーからは遠い言葉を連発していると、ブンガクとカタカナに聞こえて来る。遠い異国の言葉のような、ゆかりもないものに感じると似合ってないな、と笑った。
「その文学的な女と別れちゃったのか」
「俺と文学が、かけ離れていたからな」
堺はそう言って笑いながら、あじさいと几帳面な文字をマス目に埋め込んだ。
「残念だったなぁ」
全く惜しんでいるように聞こえない声で丹波が言うと、堺は、何でもないという顔をしている。
「今が割と充実しているから、別にいいよ」
「ごちそうさまでした」
堺の言葉に丹波は苦笑いを浮かべていると、元気な足音が聞こえる。
「堺さん、いるっスか」
世良がドアを開けて顔を見せると、堺はクロスワードパズルから視線を上げて、声の主に笑いかけた。
幸せそうな横顔を丹波は眺めた後、近付いてくるもっと幸せそうな笑顔を見つめた。
「文学から縁遠い相手の方が、俺には向いている」
耳元で小さく呟く堺の言葉は奇妙だが、納得してしまう。
「確かに」
「いいもんだろ」
少し自慢げに言うので肘で脇腹を小突くが、堺は余裕の表情で笑っていて憎らしくなる。
「なんだか腹が立つな」
「嫉妬か」
その言葉を聞いてうなずこうかと思ったが、何かが違う気がして、丹波は左右に首を振る。
「それほどのものじゃねえなぁ」
確かに恋愛はしたい。どこかで運命の相手と巡り合って、恋に落ちて、彼らのような幸せをかみしめたい。
その相手は堺でもなければ、その恋人でもない。一体、どこにいる誰だろうかと、丹波は思う。
「うらやましいか」
「まぁ、そうなるな」
悔しいことに、と付け加えた。
「二人で何をしているっスか」
気付けば傍まで来ている世良は、笑っている二人を不思議そうに見下ろしている。
「世良」
堺は、笑いながらクロスワードパズルを見せる。
「なんスか、堺さん」
お互いの名を呼ぶ声は甘い。そして、重なり合う視線も甘いと、丹波は感じる。恋人同士の二人に挟まれて、居心地の悪さを覚える。
「これ、読めるか」
突然の質問に世良は、きょとんとした表情を浮かべたまま、文字を見つめる。
しばらく考えた末に世良は、大きな声で答える。
「しようか!」
胸を張って答える世良に向かって、二人は思わず手を叩いて笑った。
「文学にかすりもしないぞ」
丹波の言葉に堺は笑いながら世良を見つめる。
「それでいいんだよ」
「俺、間違っていたっスか」
「うん。はずれ」
「そうっスか」
堺からあっさり間違っていると言われて、世良は眉を下げて悲しそうな顔をする。
「そんな顔をしなくていいんだぞ」
「でも、はずれたら切ないっスよ」
世良は、浮かない顔のまま、しょげ返っている。
「そうか、そうか」
「お前、変なところで繊細だな」
笑ってうなずく堺の隣で、丹波は思わずそう口にした。
世良は、唇を突き出してひどいっスと不満げに呟いた。
「答えを教えてやるから。怒るなよ」
「教えてください」
切り替えの早い世良は、堺から声をかけられたことで、たちまちに機嫌を直したかのように見えた。
だが、あじさいと読むと教わった世良は、驚くことも感心することもなく、そうですかと、うなずくだけだった。
「反応が薄いな」
丹波が突っ込むと、世良は困り眉で首をかしげる。
「納得できないっスねぇ」
「ま、漢字なんてそんなもんだよ」
堺は慰めるように髪をなでたが、世良も表情は何故か冴えない。
「あと。あじさいって、苦手っスねぇ」
花の好き嫌いがあるとは、若い男のくせにめずらしい。堺と丹波は顔を見合わせた。
「俺は好きとか、嫌いとかないな」
堺がそう呟くと、世良は安心したような顔つきになる。
そういえば、サッカー選手が花をもらうとすれば、公式戦出場の節目の時くらいだろうか。こういう時にもらう花束を家に持って帰る人間を見たことがないと、堺は思い出しながら世良の表情をうかがう。
「あじさいの花言葉って」
世良の口から、ずいぶんと本人のイメージからかけ離れた言葉が出て、二人は黙って続く言葉を待つ。
「移り気とか浮気って言うっス。だから、苦手なんですよ」
「それだけか」
「それだけっス」
一途で真っすぐな面を持つ世良は、その花言葉とは真逆の性質だな、と思う。そして、花の名前ひとつで落ち込む様子を見せる世良は、想像以上に繊細のようだ。
「そう言うところも織り込み済みか?」
丹波が小さく耳打ちすると、堺は苦笑を浮かべる。
「いや、これは少し想定外」
堺は、そうささやき返した。
「こっちは読めるか」
「それは、さるすべり」
「おお、本当だ。丹波は博識だな」
「常識」
「そうかな」
堺は納得のいかぬ顔でマス目を埋めていく。
さるすべり、と几帳面な文字で書きこむ堺の様子を丹波は、あきれ気味に覗きこんでいた。
自分のロッカーに座り込んでいる堺は、クロスワードパズルを懸命に眺めながら、ため息をついた。
「百日紅で、さるすべりか。ずいぶんと強引な当て字だな」
「昔の人に文句を言えよ」
堺が暇つぶしに始めたクロスワードパズルのマス目は、なかなか埋まらないようだ。
口出ししたいが、そんなことをすれば機嫌が悪くなるのを長い付き合いで知っている。
仕方なく黙っているが、どうにも居心地が悪い。
今、堺が取り組んでいるものは、ヒントから想像するに植物がテーマのようだった。丹波は、主のいない夏木のロッカーに座り込むと、漢字の一つを指さした。
「これは、なんて読む」
「あじさい」
「言えたのか」
よどみなく答えた堺が意外だった。思わずそう呟くと、堺はバカにするなと言う顔をする。
「言える時もある」
「さるすべりは、知らないくせに」
「ラブホテルの名前で、さるすべりは、見たことがなかったからな」
さらりとすごい発言をする。突然ラブホテルかよ、と思いながら丹波は「はぁ」と、間の抜けた声を上げた。
「あじさいホテルって言うのが、あったんだ」
「へぇ」
ラブホテルと、花の名前にどのようなつながりがあるか、と丹波が首をかしげる隣で、堺は話を続けた。
昔、付き合っていた女性は、ドライブ中に見かけた派手なネオンを見るなり助手席で笑いだしたのだと、堺は言う。
丹波は変な女がいるものだなと、うなずきながら漢字を目で追った。
「紫陽花って書くって教えてもらった時は、すげえ当て字だなって思ったんだ」
「うん。そうだな」
それと女性が笑ったと、言うエピソードがつながらない。丹波は、それがどうしたのだ、と訊ねる。
堺は思い出し笑いをしながら、文学的だという。
「どこが、文学的なんだ」
首をひねる丹波に向けて堺は、漢字を素直に読んでみろよと笑い続けた。
「むらさき、よう、はな……」
「残念。一つだけ正解」
堺の言葉に丹波は、脳裏にひらめくものを感じた。
「し、よう、か。しようか、ね。なるほど」
そう言って手を打ったと同時に「ラブホテルの名前かよ」と、声を上げて笑う。
「しようかホテル」
二人で声をそろえて思わず呟く。
「文学的だなぁ」
「文学的だろう」
文学と言うサッカーからは遠い言葉を連発していると、ブンガクとカタカナに聞こえて来る。遠い異国の言葉のような、ゆかりもないものに感じると似合ってないな、と笑った。
「その文学的な女と別れちゃったのか」
「俺と文学が、かけ離れていたからな」
堺はそう言って笑いながら、あじさいと几帳面な文字をマス目に埋め込んだ。
「残念だったなぁ」
全く惜しんでいるように聞こえない声で丹波が言うと、堺は、何でもないという顔をしている。
「今が割と充実しているから、別にいいよ」
「ごちそうさまでした」
堺の言葉に丹波は苦笑いを浮かべていると、元気な足音が聞こえる。
「堺さん、いるっスか」
世良がドアを開けて顔を見せると、堺はクロスワードパズルから視線を上げて、声の主に笑いかけた。
幸せそうな横顔を丹波は眺めた後、近付いてくるもっと幸せそうな笑顔を見つめた。
「文学から縁遠い相手の方が、俺には向いている」
耳元で小さく呟く堺の言葉は奇妙だが、納得してしまう。
「確かに」
「いいもんだろ」
少し自慢げに言うので肘で脇腹を小突くが、堺は余裕の表情で笑っていて憎らしくなる。
「なんだか腹が立つな」
「嫉妬か」
その言葉を聞いてうなずこうかと思ったが、何かが違う気がして、丹波は左右に首を振る。
「それほどのものじゃねえなぁ」
確かに恋愛はしたい。どこかで運命の相手と巡り合って、恋に落ちて、彼らのような幸せをかみしめたい。
その相手は堺でもなければ、その恋人でもない。一体、どこにいる誰だろうかと、丹波は思う。
「うらやましいか」
「まぁ、そうなるな」
悔しいことに、と付け加えた。
「二人で何をしているっスか」
気付けば傍まで来ている世良は、笑っている二人を不思議そうに見下ろしている。
「世良」
堺は、笑いながらクロスワードパズルを見せる。
「なんスか、堺さん」
お互いの名を呼ぶ声は甘い。そして、重なり合う視線も甘いと、丹波は感じる。恋人同士の二人に挟まれて、居心地の悪さを覚える。
「これ、読めるか」
突然の質問に世良は、きょとんとした表情を浮かべたまま、文字を見つめる。
しばらく考えた末に世良は、大きな声で答える。
「しようか!」
胸を張って答える世良に向かって、二人は思わず手を叩いて笑った。
「文学にかすりもしないぞ」
丹波の言葉に堺は笑いながら世良を見つめる。
「それでいいんだよ」
「俺、間違っていたっスか」
「うん。はずれ」
「そうっスか」
堺からあっさり間違っていると言われて、世良は眉を下げて悲しそうな顔をする。
「そんな顔をしなくていいんだぞ」
「でも、はずれたら切ないっスよ」
世良は、浮かない顔のまま、しょげ返っている。
「そうか、そうか」
「お前、変なところで繊細だな」
笑ってうなずく堺の隣で、丹波は思わずそう口にした。
世良は、唇を突き出してひどいっスと不満げに呟いた。
「答えを教えてやるから。怒るなよ」
「教えてください」
切り替えの早い世良は、堺から声をかけられたことで、たちまちに機嫌を直したかのように見えた。
だが、あじさいと読むと教わった世良は、驚くことも感心することもなく、そうですかと、うなずくだけだった。
「反応が薄いな」
丹波が突っ込むと、世良は困り眉で首をかしげる。
「納得できないっスねぇ」
「ま、漢字なんてそんなもんだよ」
堺は慰めるように髪をなでたが、世良も表情は何故か冴えない。
「あと。あじさいって、苦手っスねぇ」
花の好き嫌いがあるとは、若い男のくせにめずらしい。堺と丹波は顔を見合わせた。
「俺は好きとか、嫌いとかないな」
堺がそう呟くと、世良は安心したような顔つきになる。
そういえば、サッカー選手が花をもらうとすれば、公式戦出場の節目の時くらいだろうか。こういう時にもらう花束を家に持って帰る人間を見たことがないと、堺は思い出しながら世良の表情をうかがう。
「あじさいの花言葉って」
世良の口から、ずいぶんと本人のイメージからかけ離れた言葉が出て、二人は黙って続く言葉を待つ。
「移り気とか浮気って言うっス。だから、苦手なんですよ」
「それだけか」
「それだけっス」
一途で真っすぐな面を持つ世良は、その花言葉とは真逆の性質だな、と思う。そして、花の名前ひとつで落ち込む様子を見せる世良は、想像以上に繊細のようだ。
「そう言うところも織り込み済みか?」
丹波が小さく耳打ちすると、堺は苦笑を浮かべる。
「いや、これは少し想定外」
堺は、そうささやき返した。
「こっちは読めるか」