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はじまる一週間(土曜日)

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静雄の機嫌がどうも悪いな、とトムは煙草を吸いながら考えていた。目の前では何時も通り、通常運行の仕事の風景が広がっている。
 恐怖で叫ぶ事も忘れた債務者と、その債務者の目の前に立つ人間とは思えない怪力を使う静雄。普段通りといかないのは、どうも静雄が力の加減が出来ていないところにあった。今もトムのすぐ横で、ぐしゃりと曲がったガードレールが遙か向こうに飛んでいったところである。
「人から借りた金返さねえ上によ、懲りずに風俗通いしてるってのはどういう了見なんだよ、なあ?」
 トムは五歩後ろに下がった。道ばたに転がるように投げ出された人間が、がたがたと震えているのが静雄の足の間から見て取れる。その恐怖が張り付いた顔を見て幾らかの同情をするものの、しかし続く静雄の言葉に更に五歩静雄と距離を開けた。助けたり止めたりする事が出来る程、トムは常人離れしていない事は自分が一番分かっている。
「人が聞いてんのに答えねえってのはよお、その口飾りって事だよな? じゃあもういらねえよなぁ、そうだよなあ」
 答えられる筈がないだろうと思うのはトムと債務者だけではないだろう。
 目の前にいるのは、只のやくざでもチンピラの類でもない。池袋の喧嘩人形と恐れられる平和島静雄なのだ。それも怒りに支配されて体中の血管が浮いている状態である。
 静雄が一歩債務者に近付いた所で、逃げるようにばたばたと両足をもがきながら男は後ろに後ずさった。それを見て静雄が路上に立つ標識に手を掛けた。

(今日はどうしたってんだ?)
 標識を突き立てられて今度こそ悲鳴を上げる債務者の声を聞きながら、トムは空を見上げた。今日も空は快晴である。







「静雄、お前今日やっぱ休んだ方がいいんじゃねえかな?」
 普段から日和見主義的なところのあるトムにしては、非常に珍しい行動に出る。渋る静雄を引きずって、休憩と称して公園に半場引きずるようにして連れてきていた。
 一息吐いたところで、トムは静雄の機嫌が悪くない事を見て声を掛ける。互いに煙草を吸っている為、幾分心がゆったりとしているお陰である。静雄は肺に入れていた煙を吐き出すと、そこで自分の向かい側にいるトムの顔を見た。トムの顔が普段よりずっと硬い事に気付いて、自分は何をしたのだろうという素朴な疑問が心に浮かぶ。
「俺、疲れてるように見えますか?」
「いや、逆だよ」
 すげえ、身体の調子は良さそうだけどとトムが言葉を繋げた。トムの言いたい事が分からない静雄は、ただ首を傾げて煙草の火をもみ消した。力が強すぎた為、半分ほど残る煙草は綺麗に折れて中の葉が細かく公園の土に落ちる。
「お前今日、用事とかあったんか?」
「用事は、」
 用事ならあった。静雄は今日、本当ならば今の時刻自宅で昼食を少年に作って貰う筈だったのだ。
 しかしその約束も昨日の夜半過ぎにトムから連絡があり、昼過ぎに取り立てに行く筈の債務者の帰宅の時刻に合わせて早朝から仕事に駆り出されている今となっては、既に無いに等しい。早い時刻から仕事が始まったからといって、早く終わるとは限らないのが取り立て屋の仕事である。
 連絡を受けた時、静雄はそれも仕方無いなと割り切っていた。
 自分の昼食を作って貰う事が仕事より大事な事だとは思っていない。少年との約束を違える事は気が引けたが、恐る恐る連絡をすれば「お仕事頑張ってください。僕の事は気にしなくていいですから」という殊勝な言葉まで言われてしまっては、静雄からは「そうか、ごめんな」以外に少年に言える言葉はなかった。
 柔らかい声音を聞きながら、静雄はむしろ嬉しいとすら感じたのだ。少年と電話でやりとりをしたのは昨日が初めてだった。

「用事はないす」
 昨日深夜の短い時間を思い出して、静雄はトムにそう告げる。トムがそれを聞いて珍しく顔を顰めた。それを見て静雄は自分の言った発言がトムに信用されてない事を理解する。
「ならいいんだけどよ」
 それでもトムが静雄を言及する事はなかった。
 それから二人の間に会話はなく、十数分の短い休憩時間はゆっくりと過ぎていく。
 静雄はすっかりこの数日で、使う事に馴れた携帯電話を取り出した。着信履歴に残された『竜ヶ峰帝人』の文字を見て、静雄はほっこりとした気持ちになる。
 思い出されるのは昨日半日の少年との出来事である。何度も心中で呟いていたおかげで、静雄の頭にはしっかり帝人の名前が刻まれていた。
 もう忘れるという失態を犯す事はないだろうと静雄に自覚させる程度に、帝人は静雄の心に入ってきてはいる。
 静雄は次にメール画面を開いていた。昨日の電話で帝人から「お昼くらいに電話かメールしますね」と告げられていたのだ。しかしメールが来ている様子はなく、静雄は幾分がっかりとしながら携帯電話をポケットにしまった。

「やっぱお前あれか、用事あったんじゃないか?」
 トムがその一連の様子を見て声を掛ける。静雄のその様子もまた、トムはここ数日見慣れているものである。初めて見た時は何事かと自分の目を疑ったが、今では何の疑問も浮かばない。その程度に繰り返されている静雄の行動の先にある、未だトムは見たことのない人物を思い出してトムは言葉を発したのだ。
(彼女と用事あったんじゃないのか)と目で告げるトムの心遣いも、言葉にされなければ静雄が分かる事はない。いくつになっても鈍感な男なのである。
「いえ、ないすよ」
 それどころか「どうしたんですかトムさん」と逆に静雄に心配されてしまう。トムはがっくりと項垂れて、それからがりがりと頭を掻いた。
「お前、彼女ん家行くとかだったんじゃねえのか」
「えっ! なんすかトムさん突然!」
 静雄が一気に顔色を変える。赤くなるその顔に浮かぶ血管を見て、トムは静雄が怒りと恥じらいの二つの感情を煮え立たせている事を知って後ろに下がった。物をぶつけられたら敵わないどころか、今の力を制御出来ない静雄ならば当たり所によっては即死である。
「お前、顔に出やすいからな」
 本当は顔だけでは無く、態度全てがわかりやすいが静雄という男である。
 トムだって、友人であり今は仕事の同僚のプライベートに無遠慮に首を突っ込むつもりは毛頭無い。それこそ相手は静雄だ、恋愛事に首を突っ込むなら馬に蹴られるどころの騒ぎではなくなるだろう。
 そこまで考えてどうしようかと頭を掻いていたがトムだったが、そこでトムの向かいにいる、手の中のプラスチックで出来た携帯灰皿を握りつぶす静雄を見てトムは覚悟を決める。いつだったか気に入っていると言っていたそれを簡単に握りつぶした挙げ句、握りつぶしている事に気付かない静雄では仕事がはかどる訳が無い事は誰の目にも明らかだった。

「静雄、お前今日もう帰れ」
「えっ!」
 静雄の顔が一気に赤から青に変わる。トムも流れ聞きしかしていないので詳しくはわからなかったが、数々のバイトをクビになったトラウマでも思い出しているのだろう。静雄の背中から(辞めろって事ですか)と重い雰囲気がだだ漏れているのが裏付けていた。
「辞めろっつってんじゃねえよ。ちょっとお前、肩に力が入ってっから休んだ方がいいんじゃねえのかって俺は思うんだが」
 トムがそう思うのには理由がある。